2012/3/19-24

 

2012/03/19(月) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌522
 著者は「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかける。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」とは教会である。そして教会はキリストにあって神の子とされた人々、兄弟姉妹によって構成される家族である。パウロは「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。ロマ 1:13)」と述べ、ペトロも「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです?ペテ5:9)」と述べている。教会構成者が兄弟姉妹であるのは血筋や家系の故ではなくお互い気に入ったり、共通の意見や関心をもっている故でもない。キリストに選ばれ、キリストに属している故である。主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハ 15:16)」と語られた。それ故わたしたちは主によって置かれた所において全力を尽くして主に仕えるべきである。
 

 

2012/3/20(火)担当 高谷満世師 サムエル記上13: 1-15 賛美 聖歌556
 サウルが王になって最初の戦いである。ヨナタンがゲバでペリシテの守備隊を打ち破ったことを機に、ペリシテとの全面戦争に突入するという緊迫した状況にあった。サウルは兵を集めると同時にサムエルがささげ物をささげなければならなかった。サウルは主がこのために立てられた預言者サムエルの霊的な権威を理解していたにもかかわらず、集められた兵が去っていく一方ペリシテが目の前に陣を敷いているという緊迫した状況の中で待つことができなかった。待つことは難しい。その状況の中でサウルは、主に嘆願するのは自分でもかまわないと言い訳をしつつささげただろうか。そのサウルに対する「愚かなことをした(13)」というサムエルの言葉は厳しい非難であった。単に知恵が足りないだけではなく、サウルの神を畏れる姿勢、霊的服従をも批判されている。
 私たちもしばしば信仰生活の中で神から長く待たされることがある。自分で行動したほうが解決が早い、あるいは気楽だということがしばしば起こる。しかしそのようなことは主の権威をないがしろにしてよい理由にはならない。主が求められるのはあらゆる場面で主に信頼して、主に服従することである。今日も主に従おう。
 

 

2012/03/21 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌553
 続いて著者は教会を「聖なる兄弟たち」と呼ぶ。人々は教会は清く正しい、何の汚れもない人々の集まりであると考え、期待する。しかし現実はそうではない。教会の中にも欲望と打算、高慢、怒り、怠情等が渦巻く。多くの人々はこの現実を目にして躓く。主イエスの御在世当時、時の宗教指導者たちは律法を守れない人々を罪人と呼んで彼らとの交わりを絶った。主イエスがそれらの人々を招いて教え、食事をしておられるのを見て『ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした(ルカ 15:2)』のである。これに対し主は「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある(ルカ 15:2)」と答えられた。御子は罪人のすべての罪を身に負って十字架に架かり、贖ってくださったのである。その血潮によってわたしたちを聖なるものとしてくださるのである。それ故わたしたちに求められているのは互いの罪を裁きあうことではなく、主の赦しの恵みに信仰によって留まり、互に赦し合い、助け合い、励まし合って聖なるお方にふさわしく歩むことである。
 

 

2012/03/22(木)担当 高谷満世師 サムエル記上13: 1-15 賛美 聖歌520
 「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。(13-14)」厳しい主の言葉である。ここにイスラエルの王と周辺諸国の王の違いがはっきりと現れている。イスラエルでは王国は王のものではなく、主権者は王ではない。イスラエルの王は神の民を導くために主に選ばれた者であって、王といえども最高主権者ではなく、神の主権のもとで神の御心を行う僕であった。
 今日、神は私たちの手に多くをゆだねておられる。それぞれの場所で主の民を導く者が立てられている。指導者は家庭においても教会においても、自分が主権者ではないことを覚え、常に主に仕える、主の主権の下で民を導くことを忘れてはならない。
 

 

2011/03/23(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2   賛美 聖歌295
 また著者は「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」と述べる。主は「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである(ヨハ6: 38)」と語っておられる。主は父なる神によって遣わされたのである。それ故、父なる神の御心を行われた。この主は「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハ 20:21)と言っておられる。従って教会は御子の御心を行うために、御子によって遣わされたのである。わたしたちは今日一日、御子によって遣わされた者として、地上に在って御子の御心を行おう。
 

 

2012/03/24(土)担当 高谷由紀子師 マタ7:21−23   賛美 聖歌295
 主イエスは福音を語り、苦しんでいる人々、病んでいる人々、様々な困難にある人々を慰め、助け、信じる人々に救いを与えておられたのでその名はユダヤ全土に知れ渡っていた。また、主が七十二人を任命し、ご自分の権威をもって遣わされた時、悪霊さえも彼らに従った。それを見た偽預言者や魔術師たちの中にイエスの名を利用して様々な奇跡を行い、人々を驚かせ、自らを偉いもののように見せる者たちがいた。それに対して主が語られたのがテキストの御言葉である。パウロもまた「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです?コリ9:27)」と言っています。天の御国に入るのは業績によるのではなく信仰によるのです。