2014/6/2-7

2014/6/2(月) 担当 高谷清師 ?コリ7:25-28賛美 新聖歌 316

 続いてパウロは未婚の人たちについて語る。それを語るに先立ってパウロは「わたしは主の指示を受けてはいませんが」と言う。これからパウロが語ろうとしていること―人は現状にとどまっているのがよい―はみ言葉には語られていない。御言葉は「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる(創 2:24)」と記しており、主もまた『そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。(マタ 19:5)』と語っておられる。これらから考えると、人は結婚するのが自然の姿であるように思える。同時に主は「恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる(マタ 19:11-12)」と言って、結婚しないこともまた神からの恵みであることを示唆しておられる。それ故、パウロが今から語ろうとすること、―人は現状にとどまっているのがよい、すなわち、現在未婚であるなら結婚しないほうがよい―はパウロの意見であるという。しかしそれは「主の憐れみにより信任を得ている者として」述べるのであって、肉から述べるのではない。ここにみ言葉を語り、伝えるために召された者の畏れがある。近藤勝彦師は「説教という、人間にとって本当は不可能な、しかし幸いにも許された務めに召されたことを、感謝しつつ、今後とも誠実にこの使命を受けとめていきたいと思っています。(人を生かす神の息P4教文館)」と述べておられる。無限の存在者であられる神のみ言葉を有限者である者が説き明かすことは不可能である。それをご存知の上で神は人をその任に召される。その時、召された者は召しの確信に立って神の助けと聖霊の導きに頼りつつ、その任を遂行するのである。そのためには愛兄姉方の祈りを必要としているのである。
 

2014/6/3 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上12:1-18 賛美 新聖歌389

 ここで話は少し時をさかのぼる。12:1にあるように、ここではダビデが王になる前、まだサウルがダビデの命を狙っていたために逃亡生活を送っていた時代に戻る。当時ダビデはサウルに仕えていた一人の若者であった。それにもかかわらず、この逃亡者のもとに多くの勇士たちが集まってきた。驚くことにこの人々の中で最初にダビデのもとに来たと記されているのはサウルの同族のベニヤミンの勇士たちであった。本来なら家系としてもサウルに近く、サウルの重臣として支えるべき人々でさえダビデのもとにやってきた。またガドの人々はヨルダンが増水して危険な時期にも関わらず、その川を越えてやってきた。これらの人々を惹きつけるものがダビデにあったのである。まさに神の特別の祝福と力が彼を覆っていた。
 さらにダビデ自身もやってくるものに対して神の信仰に立って向き合っている。18節では仲間に加わる者たちにダビデも心を一つにして信頼するということを明言し、仮に彼らがダビデを裏切るようなことがあったとしても、その罪に対処することについては神にゆだねるとしている(12:18)。サウルとは対照的に、ダビデは窮地に立たされても自力で状態に介入しようとは言わず、神にゆだねると宣言している。これはゆるぎない信仰者の態度である。
 問題が起こった時何とか自力で解決したくなる。そのために誤った方法をとってしまう。しかし信仰者のなすべき解決は自分で行動するのではなく、自分の激する気持ちを抑えて神にゆだねることである。主が解決してくださる。
 

2014/6/4 (水) 担当 高谷清師 ?コリ7:25-28 賛美 新聖歌 327

 パウロが「人は現状にとどまっているのがよい」と語った理由は「今危機が迫っている状態にある」からであった。この危機について新共同訳聖書は「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである(ルカ21:23)」を引照している。つまり終末の日を指すものとしている。カルヴァンは「この危機の時とは、パウロの時代のことだとする人たちがある。かれの時代は、信者にとっては悩みにみちみちた時代であった。しかし、わたしには、むしろ、かれがふれようとしたのは、聖徒がこの現世においていつもゆさぶり動かされている不安のことであって、単にかれの時代のことだけではないように思われる。だから、このことはあらゆる時代にあてはまる。そして、意味はこうなる。「聖徒は、この世においてはあちこちと引きまわされたり、さまざまの不運や災厄にさらされていることが多い。だから、かれらの境涯は、結婚に適しているとは、思われない」。(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P176新教出版社)』と述べている。
 いつの時代にも、クリスチャン生活は形を変えた危機に直面する。主は「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか(マタ 16:2-3)」と語られた。聖霊に助けの中で時を見分け、正しい選択をしょう。
 

2014/6/5 (木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上12:19-41 賛美 新聖歌 355

 引き続き多くの兵士がダビデに加わっている様子が記されている。三十人隊の長アマサイがダビデのもとに来た時、彼の上に霊が下ったと言われている。ほかにも旧約聖書においてギデオンの上に神の霊が下ったとことが同じ表現で記されている。アマサイは兵士であったが、この時霊に導かれて語っている。そしてダビデの軍隊に迎え入れられたが、ここでも単に人間同士の行動ではなく、その背後に神の導きと力があったことがわかる。
 12:23では日々仲間が加えられて出来上がった陣営は「神の陣営のよう」であったと述べられている。ここを読むと何か特別な雰囲気があるのだろうかと考える、すなわちどんな時でも、何をする時でも神がそこにおられた、ダビデとともに歩まれたということがわかる。
 神とともに歩むことと聞いても何かあやふやで頼りないもののように感じることがあるかもしれない。しかし、本当に神を信頼して、神のことばを求め、み言葉に従い、主に導かれて歩むとき、確かに自然に必要が満たされ、力がみなぎり、平安、シャロームが体験されるのである。
 

2014/6/6(金) 担当 高谷清師 ?コリ7:25-28  賛美 新聖歌 388

 「妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです」と述べて、結婚している、していないにかかわらず、人は現状にとどまるべきことを勧める。更に、未婚の女が結婚しても罪を犯したわけではないことを示す。未婚の人たちに現状にとどまるように勧めるのは、結婚することによって身に負うであろう労苦から解放したかったからであると言う。パウロの深い思いやりに感謝するとともに、いかなるときにも心を一つにして主に仕え、主に喜ばれる歩みをしていこう。
 

2014/6/7(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 10:38-42  新聖歌 316

 イエス様とその一行は旅を続けてある村に入られた。するとその村に住むマルタと言う婦人が一行を家に迎え入れました。この家族はイエス様を信じ、愛する人々でした。マルタはイエス様を迎えた喜びでいっぱいでした。彼女はイエス様に喜んでいただこうとして接待のために気を使い、忙しく立ち働きました。疲れを覚えたマルタがふと見ると妹のマリアはイエス様の足もとに座って、その話に聞き入っているではありませんか。腹を立てたマルタはイエス様に「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と言いました。それに対してイエス様は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とお答えになりました。このことからみ言葉に聞き従うことこそが一番大切なことであることを学びます。私たちも日々の雑用に流されがちです。しかし御言葉に耳を傾けることこそ、第一にすべきことです。