2017/8/21-26

2017/8/21(月) 担当 高谷清師 ヨハネ5:25-26 賛美 聖歌 273
 イエスは「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」と語られる。ここで言われている「死んだ者」とは、パウロが「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」(エフェ 2:1)と述べているように、肉体的に死んでいる死人たちではなく、自分の罪によって霊的に死んでいる人々のことである。しかし、神は時満ちて御子イエスを遣わしてくださった。そして御子の言葉を聞く者は生きる。何故なら、父なる神は御自身の内に命を持っておられ、御子にも命を持つようにされたからである。御子イエスの言葉は罪と咎によって死んでいる魂に命を得させる、いのちのことばである。この言葉を託されたのが教会であり、キリスト者一人一人である。それ故、私たちは常にみ言葉を伝えよう。

2017/8/22(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書7:21-28 賛美 新聖歌166
 ここで神が語るイスラエルの民は非常に宗教的で、信心深い人々である。彼らは献げものといけにえとを欠かさない。彼らなりに神への畏敬の念を表していたのである。しかし残念ながらこれを神は喜んでおられない。神は命じたこともないことを民が行っており、民の宗教行為が神への不従順であると言われた。神が求めておられるのは聞き従う姿勢であって、様々な捧げものではない。
 これは繰り返し預言者の口から語られたメッセージであるが、これを通して私たちの信仰生活についても考えさせられる。私たちも信仰的伝統を持ち、あらゆる教会が何らかの形式を持っている。時にはその形式を遂行することで私たちの信仰心が満足し、真の神の声を聞いて従うという生きた交わりが見過ごされるということにもなりかねない。形を重視する信仰ではなく、神との対話と生きた交わりを保つ信仰生活を送りたい。

2017/8/23(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 5:27-29 賛美 聖歌 635
 続いて主は「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。」と語られる。ダニエルは「夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。」(ダニ 7:13-14)と記している。よみがえられた主は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタ28:18)と語っておられる。ヨハネは「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハ 3:36)と述べている。御子は罪の赦しを与える権能と共に、裁きを行う権能をも授けられておられる。それ故、パウロの「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」(ロマ 11:22)と語るところに従い、固く立って歩もう。

2017/8/24(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書7:29-34  賛美 新聖歌262
 「主を怒らせたこの世代を/主は退け、見捨てられた。」(7:29)という恐ろしい神のことばが語られる。主の前に悪を行い、神殿に偶像を持ち込み、子どもをいけにえとするなどという、神が命じてもいない、異教の習慣を礼拝に持ち込み、結果として神に背いた民への言葉である。大変厳しい言葉であり、愛の神の口からこのように言われるとは考え難いような言葉である。しかしここに至るまでに神は何度も預言者を送り、警告し、悔い改めを促されたのである。それでも民は神に背き続けた。結果として神の裁きを避けられなかったのである。
 私たちは「愛の神」に甘えすぎてはいけない。「愛の神」はあらゆる不従順を見逃し、私たちを甘やかす神ではない。むしろ、深い愛から出る厳しさと忍耐をもって私たちを神との関係の中で正しい位置に立たせてくださる神である。それゆえに私たちも真実と忠実をもって神の御声に聞き、神の御心に適う歩みを進めよう。

2017/8/25(金) 担当 高谷清師  詩編34:5-8 賛美 新聖歌 445
 主の驚くべき救出の御業を体験したダビデは「わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。」「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。」と、主の御業を証しする。そして信仰の友に対し「主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。」と語る。更に「主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。」と語る。ダビデはアキシュの前に引き立てられた時、アキシュにダビデに手を触れさせないある力を見させたのであろう。それ故「主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。」と詠うのである。この言葉は、後にアラム軍がエリシャのいる町を包囲した時の出来事を想起させる。そして私たちが絶体絶命の危機に遭遇した時にも信仰と勇気を与えるのである。いかなる時にも神に信頼しょう。

2017/8/26(土)担当 高谷由紀子師 ヘブ 13:20-21 賛美 新聖歌 247
 8月は広島、長崎の原爆の日、敗戦の日と、太平洋戦争に関する記念の日が続き、平和が語られます。日本だけでなく全世界で平和が語られ、求められ、実現のためにあらゆる分野で努力が続けられています。しかし分裂・紛争は克服されるどころか、益々深刻さの度合いを深めています。これは平和が人間の知恵によって実現できるかのような錯覚を抱いている為ではないかと考えられます。聖書は「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:20)と述べています。ヘブライ人への手紙の記者は「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」(ヘブ 13:20-21)と述べています。真の平和は一人一人が贖いの恵みによって神との和解を得るところから始まるのです。”,,721″