2018/9/24-29

2018/9/24 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10: 7-9 賛美 新聖歌 427
 イエスは「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。この箇所についてライルは先人たちの解釈を紹介しながら「この文章の意味は恐らく次のように言い換えることができるであろう。「およそ教会の教師と称する者のうち、キリストの栄光にもまして自分に栄光を帰し、あるいはキリストにもまして他のものを優先していく者がいるならば、そのような者はあなたがたパリサイ人と同じく盗人また強盗であって、真の牧者ではない。」私はこれ以上の解釈を見出すことはできないが、確かにこの文章が難解であることも認めざるを得ない。(ジョン・C・ライルは「(ライル福音書講解ヨハネ2P473聖書図書刊行会1987))」と述べている。ぺトロは「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(?ペト5:1-3)と述べている。盗人であり、強盗に従ってはならない。彼が如何に絶大の権力を持ち、かっこ良くても・・・。

2018/9/25(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書37:17-21 賛美 新聖歌427
 ゼデキヤ王が捕らわれの身であるエレミヤを呼び寄せ、主のことばがエレミヤに与えられたかと尋ねている。おそらく再びバビロンの包囲を受けて行き詰まった状況にある王が最後の奇跡を求めてエレミヤを呼び寄せたのだろう。王はこの国の支配者でありながら堂々とエレミヤを呼び寄せたのではなく、ひそかに彼に尋ねている。ゼデキヤは王の位にありながら人々を恐れ、不自由な中で神の真実の言葉を求めた。対照的にエレミヤは大胆に神の言葉を語ったがゆえに捕えられていたにも拘らず、王がひそかにエレミヤに与えられた神の言葉を求めた時、エレミヤはひるむことなく前と同じバビロンの手に王は渡されるという言葉を語り、さらに王が耳を傾けた偽預言者たちについて間違いを指摘し、王に牢獄へ戻さないように大胆に求めた。
 囚われの身でありながら大胆で揺らぐことのない確信に立つエレミヤと、王でありながら高官たちを恐れてひそかにしか行動できない王の姿は対照的である。エレミヤが落ち着いていられたのは世俗的な地位の故ではなく、主のことばをしっかりと握り、揺らぐことのない神との関係に立っているからである。私たちの土台は真の神にしっかりつながる揺らぎない土台としての信仰である。

2018/9/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ10: 7-9 賛美 新聖歌 316
 続いてイエスは「羊は彼らの言うことを聞かなかった。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルはプレンティウスの見解を紹介している。「プレンティウスの見解では、私たちは主の「羊は彼らの言うことを聞かなかったのです」ということばから、神の民は一時的にせよ、決して偽りの教師に導かれゆくことはないと簡単に結論してはならない。時として彼らも欺かれたり誘惑されたりすることはあるが、ついには真理に立ち返るのである。」(ジョン・C・ライルは「(ライル福音書講解ヨハネ2P475聖書図書刊行会1987))と。前世紀中葉から奇跡を伴う信仰運動が盛んである。しかしイエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタ 7:21-23)と語っておられる。またヨハネ福音書9章の生まれつき盲人であった人の癒しの記事においては、その奇蹟を見てイエスを信じた人も、論争の中では不信仰な人々に数えられている。更にヨハネは黙示録13章において「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。」(黙13:8)と述べている。謙虚に、聖霊の証に従い、現象ではなく御言葉に生きよう。

2018/9/27(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書38:1-13 賛美 新聖歌291
 エレミヤは監視の庭にありながら民に対して公に主の裁きの預言を語ることができた。国際情勢がエレミヤの語る通りになり、エルサレムもまたバビロンの脅威にさらされる中、エレミヤを次第に尊敬する人々が増えてきたときであった。同時にエレミヤに激しく敵対してきた偽預言者と役人たちはエレミヤに対する敵意を深めていった。彼らは王の弱点を利用してエレミヤを捕え、水だめに釣り下ろすことで不当にエレミヤを殺そうとしたのである。しかしその企てを知ったエベド・メレクがゼデキヤ王に訴えてエレミヤを助けた。ここでもゼデキヤ王の弱点、優柔不断さ、そして正義にしっかりと立って明確な行動を起こせない姿が描かれる。
 ゼデキヤ王を見て私たちは何を知るのだろうか。神の前に歩む者が正義を行うために必要なことは地位や権力ではない。絶えず神の声を聞き分け、たとえどのような状況にあろうともその正しい御声に従ってぶれずに行動することである。この様な歩みを実践できるクリスチャンでありたい。

2018/9/28(金) 担当 高谷清師  詩 39:2 賛美 新聖歌 444
 この詩の作者は「わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」と語る。作者の前には「神に逆らう者」が立っている。彼らは不義によって権力を握り、富み栄え、時を得顔に振舞い、人々からほめたたえられ、有頂天になっている。このような状況を前にして作者は「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。わたしの口にくつわをはめておこう。」と決心する。この点について小畑進師は「いたずらに悪の横行に激昂することは、主の御支配をわきまえない点において、悪の道に通じるとわきまえれば、詩人は自戒して、特に身体のどこの部分よりも真っ先に火を吹き出しそうなおのれの口舌にくつわをかけて制御しました。」(小畑進 詩篇講録上P508いのちのことば社2007))と述べておられる。また、カルヴァンは「舌を抑制するのはきわめて困難であったので、その実例に即して、何かの災厄がわれわれを悩ますときには、いつでもわれわれの情念を抑えようと努力することを、学ぽうではないか。それは,神に対して不敬な不満を、うかつにも発することがないためである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P21新教出版社1971)と述べている。

2018/9/22(土)担当 高谷由紀子師 マコ 11:15-17 賛美 新聖歌 197
 イエス様はエルサレムに到着し、神殿の境内に入られました。そこでイエス様が目にされたのは両替人や鳩を売るって暴利をむさぼる人々でした。彼らが、聖なる場所を自分の肉の欲を追及する場として利用しているのをご覧になったイエスは、彼らを追い出し、「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」と言われました。
 神殿は神が臨在なさる聖なる場所であり、神を礼拝する場所でした。今日の教会も神を礼拝する場所であり、神との交わりの場所です。教会においては、肉の欲の追求ではなく、神と交わり、神の栄光を求めましょう。”,,584″