≪デボーションの友≫2022/7/18-23

2022/7/18(月) 担当 高谷清師 ガラ 2:15-21 聖歌(総)518  聖歌 500

 パウロは「ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか。」と語る。「誰があなたがたを惑わしたのか」と訳されているところをリビングバイブルは「いったいどんな魔術師にだまされて、魔法にかけられたのですか。」と記し、浅野淳博師はご自身の【翻訳】《逐語訳》に「あなた方に邪視を向けたのは誰か」(NTJ新約聖書注解ガラテヤ書簡P238 日本キリスト教団出版局2017)と記しておられる。ユダヤ主義者はパウロがガラテヤの教会に伝えた福音とは異なる律法主義を持ち込み、ガラテヤ人たちはいとも簡単にパウロの伝えた福音を離れて律法主義の教えに流れようとしていた。リビングバイブルや浅野淳博師の【翻訳】《逐語訳》を見る時、ガラテヤ人の離反は単なる神学論争や教理論争ではなく、もっと大きなサタンの力が働いていることが見られる。ぺトロは「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。」(1ペト 5:8)と警告している。しっかりと主イエスに目を注ぎ、主イエスの御心を求め、真理の内を歩もう。

2022/7/19(火) 担当 ラウジー満世師 創世記9:18-10:22 賛美 聖歌(総)469 聖歌456

 洪水の後、ノアの息子たちを通して人類が増え広がる。ノアはぶどう酒を飲んで泥酔してしまう。裸で寝てしまったノアの不名誉な姿を見つけたのはハムであった。ハムはその姿の父を放置してセムとヤフェトを呼び、彼らにその父の姿をさらした。このハムの行動には父親に対する尊敬が欠けている。しかしほかの二人は父の裸を覆い、恥を隠し、父の尊厳を保とうとした。二人はこの行動によって父への敬意を示した。その後のノアの祝福の中でカナンは呪われ、セムとヤフェトは祝福される。祝福が次の世代に受け継がれていくために、来るべき世代は前の世代を尊敬し、ふさわしい敬意を払わなければならないのである、

 前の時代を切り開いていった世代を敬うことは当然のことであろう。しかしふさわしい敬意が払われないときがある。それらは神の祝福が次の世代に受け継がれることを妨げる結果になる。神の前に生き、祝福を受け継ぐ者として、父母を敬い、主のみ言葉に従おう。

2022/7/20(水) 担当 高谷清師 ガラ 2:15-21 聖歌(総)774  聖歌692

 パウロは「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたの」と記す。この句は十字架の出来事が今から2000年前に起こった単なる過去の一時点の出来事ではなく、その結果は今も続いていることを示している。すなわち、私たちの罪を負い十字架につき死なれたお方は、死に勝利してよみがえられた今も、更に、永遠に変わることなく私たちの罪を負い十字架につき死なれたお方として存在しておられるのである。それ故、今も、そして永遠に、人はイエスを信じる信仰によって罪の赦し、救いの恵みに与るのである。更にこの十字架の言葉は全世界の全ての人々―反抗し、拒む人々を含めて―に今も宣べ伝えられているのである。

2022/7/21(木)担当 ラウジー満世師 創世記11:1-32 賛美 聖歌(総)569 聖歌545

 11章の冒頭に描かれている人々の姿には力と勢いを感じる。全地で神の祝福を受けて増え広がる人々は同じ言葉によって意思疎通がスムーズに行われ、一致して大仕事を成し遂げることが出来た。レンガ造りやアスファルトという技術も手にして頂が天に達するほどの塔を擁する町を自らの技術を集結して作ろうと企てる。人々が協力して何かを成し遂げることは素晴らしいが、天にまで届くほど、神の力に並ぼうとするほどの企てに邁進していく姿に、神への恐れとへりくだりを忘れた人間の現状を見るようである。神は人々の企てを見て彼らの言語を混乱させて地の面に散らされることを決意され、それを実行された。

 人間は日々努力を重ねて様々な技術を開発し、大きなことを成し遂げる技術革新を続ける。これらが神の前に生きる人間としての謙遜と立場をわきまえず、自らが神のような権力を持つように誤解されて進んで行くとき、神は立ち上がってそれをとどめられる。私たちは全能の神の御手によって造られ、生かされている、神をほめたたえるべき存在であることを覚えて主を礼拝しつつ今日も前進しよう。

2022/7/22(金) 担当 高谷清師 詩 69:2-6 賛美 聖歌(総)294 聖歌309

 詩人は「神よ、私を救ってください。/大水が喉元にまで迫っているからです。私は深い泥沼にはまり込み足がかりもありません。/大水の深みに沈み/激流が私を押し流します。」と詠う。この箇所について月本昭男師は

「詠い手は敵の「ゆえなき」攻撃に直面し、突加として危機に陥った。パレスティナでは今日でも、雨季に、局地的な強雨が涸れ谷をつたって合流し、激しい泥流となるため、これに呑みこまれて生命を絶たれる悲劇が起こる。詠い手には、彼を圧倒する敵の攻撃がそのような泥流のように感じられたのである」『詩編の思想と信仰Ⅲ』P260新教出版社2011)

と述べておられる。

 そのようないわれなき苦難に襲われた詩人は「神よ、私を救ってください。/大水が喉元にまで迫っているからです。私は深い泥沼にはまり込み/足がかりもありません。大水の深みに沈み/激流が私を押し流します。」と詠う。

 他者からのいわれなき攻撃にさらされた時私たちは動揺し、自らの基盤を失う。このような不条理は今の世にも内外を問わず横行している。しかしそれらの全てを主はご存知である。いわれなき苦難に遭遇する時も主を見上げよう。

2022/7/23(土) 担当 高谷清師 マタ 6:11 賛美 聖歌(総)538 聖歌520  主が教えてくださった「我らの日用の粗を今日もあたえたまえ」と言う祈りを祈る者は、与えられたものすべてが神の賜物であり神から委ねられた物であることを知っている。このことは与えられたものすべてについて神に対して責任を負っており、恣意的に用いてはならず、神の御心に従って用いなければならないことを意味する。パウロは「だから、食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリ 10:31)と命じている。神から与えられたものをもって他者を傷付け、あるいは神の栄光を汚すことがあってはならないのである。常に御心に従って歩もう。