2017/3/20-25

2017/3/20(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 2:9-12 賛美 437
 自分のところに運ばれてきたぶどう酒を味見した世話役は、それが上等のぶどう酒であることを知った。事のいきさつを知らなかった世話役は花婿を呼んで、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と言った。これによって花婿は面目を施したのである。
 これによって私たちは次のことを知ることが出来る。?主がくださるものは不完全品ではない。主はいつも私たちに最も適切なものを与えてくださるのである。?また主は、人に恥をかかせるお方ではない。その時点において信じている者、信じていない者を問わず、尊厳なものとして扱ってくださる。すべての人は神によって創造されたものだからである。私たちが他人と接するとき、この視点を忘れてはならない。

2017/3/21(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書1:4-5  賛美 新聖歌170
 エレミヤは自ら「預言者」という生き方を選んだ者ではなかった。エレミヤは神に選ばれ、呼ばれたから預言者として語ったのである。エレミヤ書の冒頭には神からエレミヤへの呼びかけが記されている。神は「わたし」と「あなた」という間柄によって直接エレミヤに親しく語りかけられた。エレミヤと神との関わりの親密さは「あなた」という言葉だけではなく、「知った」という言葉からもうかがわれる。これはごく親しい間柄において使われる言葉であり、神と民との関係を指すためにも用いられる。さらにエレミヤが神を知るよりもまず神がエレミヤを知り、そして選ばれたと言われている。
 人は神を知りたいと願い、求める。人の視点から見ればまず人が神を探し求めたことによって神がその人を知ってくださったように思う。しかし、エレミヤ書の冒頭に見るとおり、まず神が人を知ってくださった。それを受け取ることによって人は神を知るのである。まず初めに神が私たち一人ひとりを知ってくださったことを感謝しよう。

2017/3/22(水) 担当 高谷清師  ヨハ 2:11-12  賛美 新聖歌 350
 この箇所にはこの奇跡によって明らかにされた二つのことが記されている。?「その栄光を現された」と記されている。この奇跡はイエスの神的な力を世に示すものであり、これによってイエスが神の子であることが明らかにされたのである。?「それで、弟子たちはイエスを信じた。」と言われている。イエスと共に婚礼に招かれていた弟子たちはアンデレ、ヨハネ、シモン、フィリポ、ナタナエルらであった。彼らがこの時始めてイエスを信じたという意味ではない。彼らがこの奇跡に接することによって、動揺することなく、確信をもって信じるようになったのである。
私たちの信仰は観念的なものではなく、不動のものでなければならない。観念的な信仰は試練に遭うと動揺する。不動の信仰は様々な体験を通して養われる。ここに、互いに受けた恵みを証し、分かち合う信仰の交わりの大切さがある。

2017/3/23(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書1:5  賛美 新聖歌260
 先日に続いて5節を読みたい。「知る」という言葉の他に注目すべきは「聖別する」という言葉である。「聖別する」という言葉は元来イスラエルの祭儀において使われていたことばであり、特別に神のために取り分けることを意味する。それ故に「罪がないこと」を指してはいない。神がエレミヤを聖別したと言われるとき、そこで言われているのは神ご自身がエレミヤを特別な務めのために神ご自身によって特別に取り分け、分離したということである。神からの委託を受けて、実際に使命を果たし、業をなすために、日常生活にまつわる諸関係から切断され、神との特別な関係に入れられるのである。
 エレミヤが神に召されたことは、エレミヤにとっては突然の出来事であった。しかし神は最初から選び、特別な奉仕のために彼を取り分け、備えられていたのである。神が主の働きのために人を選ばれるとき、それは偶然ではない。それ故に召された者によって宣言される神のことばを聞く時、その背後におられる神を認め、権威ある言葉として聞く耳を持ちたい。

2017/3/24(金) 担当 高谷清師  詩編30: 5-6 賛美 聖歌 201
 ダビデの生涯は故なく遭遇した試練と自分自身の罪の故に招いた試練に満ちている。ダビデは今、試練によって敵や隣人によって嘲られ、親しい人々にも恐れられ、避けられ、・・・疎外されている。そればかりではなく、人々はダビデに対して陰謀をめぐらし、命を奪おうとたくらんでいる。それによってダビデは苦しみ、衰えている。そのような中に在って神に祈り、信仰を告白し、「御手にわたしの霊をゆだねます」と語っている。私たちの主についてイザヤは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザ 53:3)と述べている。主は一切罪を犯さず、世人を愛されたが、世は彼を憎み、十字架につけた。主は十字架の上で命尽きようとする時「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取られた。ステファノもまた迫害によって命尽きようとするとき「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言って世を去って行った。信仰者にとって地上の命が尽きることが命の消滅ではない。永遠の命の源である神の懐への帰還である。今日のキリスト者も主に忠実であろうとするとき隠された網に落ちることがある。しかし、今日においても神は「わたしの砦」である。確固たる信仰に立って歩もう。

2017/3/25(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハネ 3:1-6 新聖歌391
 ファリサイ派に属し、ユダヤ人の議員でも会ったニコデモがある夜、イエスのもとに来て「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言いました。ファリサイ派といえばユダヤ人の中で宗教的エリートであり、議員であったということは指導者階級に属する人であったことを示しています。その彼がイエスの言動を見聞きしてこのように言ったのです。それに対してイエスは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と答えられました。私たちにとって一番大切なことは世における成功・繁栄ではなく、神の国に入れられることであり、それは修養、努力といった人間の功績によって得られるのではなく、信仰により、神による新生によってのみ得られることを示されたのです。信仰による義人は生きるのです。”,,894″