2013/12/9-14

2013/12/9(月) 担当 高谷清師 ?コリ3: 3:10-15賛美 新聖歌

 パウロは「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と語る。パウロは2章において 「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです?コリ2:1-2)」と述べた。フィリピ書において「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです(フィリピ3:4)」と述べているように、その出自において、学識において、敬虔において、・・・あらゆる点において非の打ち所のないものであり、エリートとして将来を嘱望されていた者であった。しかし、神の選びにより、劇的なキリストとの出会いを体験したとき、真理を知ったのである。それ故パウロは「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります(フィリピ3:7-9)」と述べている。クリスチャン生活の土台は、教会の土台は、十字架につけられたキリスト以外にはない。

 
2013/12/10(火)担当 ラウジー満世師 列王記下13:1-25 賛美 新聖歌317 聖歌493   
 13章では北王国の歴史が語られる。ここにはどの王も悪を行い、ヤロブアムの罪にしたがって歩んだという繰り返されるパターンが再び見られる。その中で混乱が大きくなっている。この13章を年代を追って読もうとすると、整合性が見つけられない。ここにも時代の混乱が透けて見える。ここではイスラエルは敗北と勝利の両方を体験する。敗北はイスラエルが神に従わず、罪を犯した結果であった(13:3)。それに対して勝利はイスラエルが正しいことを行ったからでも悔い改めたからでもなく、ただ契約関係に基づく神の憐れみの故であった(13:23)。
 ここに人間と神との対照的な姿が見える。人間は常に神に対して不従順であり、律法を守ることができず、神の目にかなう行いをすることに失敗し続けていた。一方、神はイスラエルが罪を犯し続けていてもご自分の契約に対して誠実であり、憐れみのゆえにその裁きを延期し、イスラエルを守り続けておられる。私たちも日々主からの恵みを受けている。それは神の深い憐れみと恵みによる。神の愛に応え、今日も心を尽くして神に従おう。
 

2013/12/11 (水) 担当 高谷清師 ?コリ3: 3:10-15賛美 新聖歌

 パウロは「熟練した建築家のように土台を据えた」のである。そしてそれは「神からいただいた恵みによって」為したのである。「恵み」という言葉は「事を可能にしてくださる神の力」(ティンデル聖書注解コリント人への手紙1P74)を意味している。この言葉を通してパウロは働きの主体は神であり、働き人は神の道具に過ぎないことを言い表している。この箇所についてカルヴァンは「たとい、ほんの少しだけであろうとも、神の栄光に属するものを自分のものに移しかえることは、パウロがいつもしてはならないと自分をいましめていたことであった。かれは、すべてのものを神に帰しまつるのであり、自分のためには何一つ取っておかない。自分はただ、神の道具であったにすぎないと言う。ところで、かれは、神のみまえにこのように大へんつつましくへりくだることによって、自分さえ尊敬をうければ、神の恵みが小さくされようと、くもらされようとかまわないとするやからの思い上りを、それとなく非難しているのである。」(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P84)と述べている。心すべき言葉である。
 
2013/12/12)担当 ラウジー満世師 列王記下13:1-25 賛美 新聖歌384 聖歌296   
 13章にはエリシャが再び登場する(13:14-21)。これはイスラエルがいよいよ混乱していくこの時代にまだエリシャが生きており、最後までエリシャは預言者として働いたことを示している。イスラエルの王ヨアシュが下ってきたときに、エリシャは王に対して弓を射るように命じた。その命令に対して王は矢を射るには射たが、それは不十分であった。預言者を通して神が与えられたチャレンジに王は良く従うことができなかった。その結果、ヨアシュには部分的な勝利が約束されただけで、イスラエルの将来にも不安が残される。それに対してエリシャはその生涯を閉じるが、その後でもエリシャの骨に触れた人が生き返り、彼を通して神の栄光が顕される。イスラエルの王国とは対照的である。
 神に従う人を神は心に留めてくださる。そしてその人に力を与え、主の栄光をあらわされる。神に忠実であることをおろそかにしながら、奇跡の業が自分を通して現されることだけを期待していないだろうか。信仰生活の基本は主に従うことである。
 

2013/12/13(金) 担当 高谷清師 ?コリ3: 3:10-15賛美 新聖歌・聖歌

 続いてパウロは「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」と述べる。ペトロも聖霊に満たされて「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。(使 4:12)」と語っている。私たちの土台は十字架につけられたキリスト以外にはない。宣教の難渋する中において、キリストに代えて善行、ヒューマニズム、富、人間に源をもつ思想、哲学等々を土台としょうとする誘惑は常に存在する。しかし肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできないのである。

 
2013/12/7(土)担当 高谷由紀子師 マタイ 18:21-22賛美 新聖歌359・聖歌453
 ペテロは「「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(18:2)と尋ねました。日本では「仏の顔も三度まで」という諺があります。私たち人間の感覚では同じ過ちを繰り返した場合、赦すのは三回が限度という思いがあります。しかしペテロはイエス様と日頃親しく接していて、イエス様が愛にとんだお方であることを実感していましたので、大奮発して「七回までですか。」と尋ねたのでした。これに対してイエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(18:22)とお答えになりました。

 「七の七十倍まで」というのは「無制限」にという意味です。主はご自身の命をもって私たち人類に罪の赦しを与えてくださいました(26:28)。神がキリストによってあなた方を赦してくださったように赦し合いなさい(エフェソ4:32)と語っています。主の無限の赦しに感謝し、互いに感謝し、互いに赦し合う者となりましょう。