≪デボーションの友≫2022/8/29-9/3

2022/8/29(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:13 聖歌(総)398  聖歌398

 パウロは「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」と述べる。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「キリストは律法の支配するこの世に入って来て、最後には|処刑の曝し木に果てたのだ。律法の下にある世の規準に照らして見れば、彼もまた呪われたひとりの人間であった。しかも彼はこの世を支配している呪われた宿命、すなわちこの世が一生懸命に行いまた願うことの全てが、一種の自縄自縛の破局に終わらざるを得ないという「律法的」宿命を身に負わなければならない。人間の全ての律法的精進努力を支配している呪いが、ゴルゴタの十字架においてその正体を露呈するのである。自力によって善を行おうとする努力のために、人類は神のほんとうの御心を弁え知る道を、われとみずから閉ざしてしまうのだ。律法と規則にしがみつき、その遵守防衛こそ後生大事と目の色を変える中で、人類は真実の善なる者であった唯一の人を抹殺する。真の宗教とはわれわれの敬虔な「宗教的」願いや志の問題ではなくして、われわれの上にある神の御心を畏み恐れこれを問い、これに従うことである。―そのことを教えるべく来られた神の御子を十字架につけたものは、人類の邪悪や卑劣というもともと不測の因子ではなく、むしろ人類の到達した宗教心そのものであった。律法の道はその極みまで行きつくされねばならなかった。人類が歩んできたその道は、まさしく人間の側から考えうる最高かつ最も懸命な宗教心としての律法的宗教心が、およそある限りのナンセンスな自己矛盾中の最も恐るべき自己矛盾に帰着するところに極まるのである。これが人類の、別してその宗教心の呪いである。イエスはこの呪いを負われた。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P66 NTD新約聖書註解刊行会1979)

と記している。世においては自己義に生きる道こそ称賛の的である。しかしそれは呪いの道であり、死の道である。

2022/8/30(火) 担当 ラウジー満世師 創世記15:7-8 賛美 聖歌(総)529 聖歌511

 主はアブラムに子孫だけではなく土地をも与える約束をされた。この時神は、改めてご自分がアブラムをその故郷から導き出した神であると確認された。ウルからアブラムを導き出した神は旅路の全行程において忠実であられた。この神が今まさに土地までも与えると言われた。しかし、これについてもアブラムは即座に信仰告白せず、しるしを求めて約束を確かめた。聖書に親しんでいる多くの人は、神にしるしを求めて神を試すという不信仰なことをしても良いのかと驚くだろう。実際に聖書には心の中では全く信じていないにもかかわらず外見は謙遜にふるまってしるしを求める場合、それを厳しく戒められている。しかしアブラムはこの驚くべき約束を固く信じるために葛藤していた。信じるために本当に必要な助けを、しるしという形で神に求めた。この求めに神が答えて下さった。

 信じるために真剣に葛藤し、信じようと求める中での願いに神は答えて下さる。神を試すようなしるしを求めるのではなく、神に信頼して心から喜んで仕えるために必要ならば、大胆に求めることが許されている。

2022/8/31(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:14 聖歌(総)631  聖歌593

 パウロは「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり」と述べる。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「かつての日アブラハムに与えられた祝福が天下の民に及ぶべき道が、いまや打ち開かれた。呪いをその身に負われた「イエス・キリストにあって」アプラハムの祝福は、キリストの死を突破口として異邦人の上に注がれることになったのである。(中略)律法の道を現に歩んでいたユダヤ人自身すら、祝福に至るどころか、まさしく呪いの手に落ちてしまったのである。いまその呪いが、ほかならぬ律法によってしかもその呪いを全身に受けとめながら処刑された、キリストの〔十字架の活事実の〕中で取り除かれたがゆえに、律法がユダヤ人と異邦人のあいだに置いた越えがたい障壁は、みごと崩れ去った。かくて祝福は、キリストの死によって世界万民のものとなった。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P68 NTD新約聖書註解刊行会1979)

記している。御子イエスの贖いの御業によって与えられた祝福を喜び、感謝と讃美を献げつつ歩もう。

2022/9/1(木)担当 ラウジー満世師 創世記15:9-20 賛美 聖歌(総)605 聖歌571

 神は指定された動物を準備するよう命じられた。詳細な将来にわたる約束を与えられた。そして煙を吐く炉と燃える松明が切り裂かれた動物の間を通ることによって、この約束のしるしとされた。アブラムはこのしるしを通して神が確かにご自身の真実に於いて必ず導いてくださると確信を与えられた。神はアブラムが人間の力によって見通すことのできないような何世代も先までにわたる、確かなご計画と導きを示してくださった。

 この時アブラムに明かされた将来にわたる計画は到底彼が知ることが出来ないことであった。神は従う人々を祝福してくださる。人が将来を考えて理解できる範囲や将来の時間について具体的に思い描くことのできない時に至るまで、詳細に計画し、神の言葉の通りに成就してくださる。私たち人間の考える範囲に神の御業と力を閉じ込めて不信仰に陥ることがないように、霊の目を開き続けよう。

2022/9/2(金) 担当 高谷清師 詩 70:1-6 賛美 聖歌(総)232 聖歌 256

 詩人は2-4節において「神よ、速やかにわたしを救い出し/主よ、わたしを助けてください。わたしの命をねらう者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き、はやし立てる者が/恥を受けて逃げ去りますように。」と祈り、6節においても「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。」と祈っている。この祈りについて小畑進師は

「「急いで」、「遅れないで」・・・・・。息せききって駆け込んだ伝令の口上のように、救援を求める声です。苦戦の最前線から火急の催促要求です。「急いで」、「急いで」、「遅れないで」――。間のびした、半分欠伸のような祈りの者は弾き飛ばされます。(中略)いったい、主なる神に向かって、早く、急いで、遅れないで、と催促すること自体が云々されるかもしれませんが、口先だけの祈りは、一切無益であるのみか、神に不快さえあたえる」とカルヴアンは語ります。「祈りに際して、持つべき心情とは、まずわれらの悲惨と貧困とを覚えるべきである。この事は我らの中に不愉快と苦悩とを惹き起こさずにはおかない。さらに神の御前に恵みを発見しようとの熱烈な願いをもち、この願いがわれらの心を燃やし、祈る熱意を生む」とします(「ジェネパ信仰問答』)。日く「熱烈」、日く「心を燃やし」、日く「熱意」と。「急いで」、「急いで」、「遅れないで」||この火を吹く声に、私どもの祈りは眼を覚まされます。「不信仰は公平であることを要しないが、信仰は常に〈今〉、〈急いで〉と祈るものである。」(『詩篇講録上』P1029-1030いのちのことば社2007))と述べておられる。

 安倍元首相暗殺事件を機に表面化した旧統一教会が日本の政界に深く食い込んでいる現実は、サタンがこの国を舞台にわがもの顔にふるまっている現実を如実に示した。この現実は切迫した祈りを求めている。

2022/9/3(土) 担当 高谷清師 マタ 6:13 賛美 聖歌(総)539 聖歌520  主は「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく/我らの罪をも赦したまえ」と言う祈りに続いて「私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください。」と祈るように教えておられる。御霊の導きによって信仰を与えられ、救いの恵みに与った私たちに襲いかかる第三の敵がある。神の祝福を受けて経済的に裕福になる、あるいは社会的地位に恵まれ、また、健康に恵まれる・・・このような祝福に与る時、人は初めのうちは主に栄光を帰し、感謝をささげていてもそれが連読すると人は高慢になり、自己義認に陥り、神に感謝することを忘れ、栄光を主に帰すことを忘れるようになる。それによって信仰から落ちる結果を招くようになるのである。パウロは牧会者テモテに対して「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモ  6:17)と書き送っている。常にへりくだって主に栄光を帰しつつ歩もう。