≪デボーションの友≫2023/6/5-10

2023/6/5(月) 担当 高谷清師 ヨハ16:4b-11  賛美 聖歌(総)428 聖歌 426

 主は「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られる。この箇所についてジークフリート・シュルツは

「罪と義と裁きとの本当の意味がこの世に対して明らかにされる、ということにほかならない。罪と義と裁きとがあるということは、この世も知っているのである。しかし問題は、だれが有罪で、だれが裁かれ、義とされるかということではない。むしろ、世にあまねく福音が告知されるに当たって、罪とは、義とは、裁きとは、そもそも何であるかが明らかになるということなのである。この三つの概念についてこの世は先入観を抱いている。しかしその先入観は、聖霊=告発者によって修正され批判されない限り、いつまでも中途半端で間違ったものでしかない。「罪」、「義」、「裁き」という概念は、旧約聖書や後期ユダヤ教においてのみならず、異教世界においても決定的な位置を占めているのである。にもかかわらず福音書記者は言う、―罪と義と裁きとの真意は、聖霊=告発者が来る時はじめて明らかにされ、それによって、だれが罪人であり、だれが義とされ、だれが本当に裁かれるのかが、決定されるのだ、と。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書389―390 NTD新約聖書註解刊行会1975)

と記している。

 「罪、義、裁き」と言ったことについては真の神を知らない異邦人社会である日本社会においても「人の道に反する」とか言われ、その裁きについて「ばちがあたる」などと言われる。しかし「罪と義と裁き」の基準は御言葉によって明らかにされ、聖霊の働きによって生きて働くものとされる。

2023/6/6(火)担当 ラウジー満世師 創世記41:1-8 賛美 聖歌総合版602 聖歌568

 給仕役が仕事に復帰して2年、ヨセフは何の変化もなく過ごしていた。ある日ファラオが不可解な夢を見た。古代世界では王の夢は王国全体に影響を与える大きな意味を持っていた。王は神の化身だと考えられていたから、王の夢はまさに神の告知であった。そしてこの夜のファラオの二つの夢は何とも理解しがたい夢であった。しかし王が呼び集めた国中の魔術師と賢者たちですらこの夢を解き明かすことが出来ないのである。

 叡智を結集しても理解できないという状況は、王の強固な権力と支配を脅かすものであった。当時世界帝国であったエジプトでさえも人間の知識の限界に対しては無力であった。エジプトの賢者たちもファラオも夢を解き明かせないが、反対にヨセフは、既に40章語っているとおり、夢の解き明かしは真の神の業である(40:8)がゆえに、可能であると確信している。神の力は人間の権力に遥かに優る。人の権力を怖れるのではなく、神の御力を信頼しよう。

2023/6/7(水) 担当 高谷清師 ヨハ16:4b-11  賛美 聖歌(総)662 聖歌 617

 主は「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」と語られる。宣教命令においては「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マル 16:16)と語っておられる。ロマ書においてパウロは「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ロマ 1:16‐17)と語り、更に「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」(ロマ 14:23)と語っている。不信仰はすべての罪の根源である。堅く信仰に立とう。

2023/6/8(木)担当 ラウジー満世師 創世記41:9-16 賛美 聖歌総合版497 聖歌480

 ファラオが、解き明かすことのできない2つの夢に心を騒がせている時、ついに例の給仕役の長がヨセフを思い出した。彼は牢獄で出会ったヨセフが夢を解き明かしたことを、ファラオに伝えた。世界帝国のエジプトの魔術師と賢者が解き明かすことのできなかった夢の解釈を、このエジプトの神々を信じてもいないヘブライ人の若者に託すのである。ヨセフはファラオの前に立ってもたじろがない。エジプトの魔術師や賢者たちのように夢を解き明かせなかったらどうなるだろうと、恐れてもいない。ヨセフの心にはゆるぎない確信があったからだ。「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」(41:16)という、臆することのない明確なヨセフの言葉が彼の神に対する絶対的な信仰を雄弁に語っている。どのような苦境にあっても、故郷から遥か遠くの地においても、ヨセフは神の力を疑わなかった。

 決して揺らぐことのなく、不信を抱くことのない信仰は、その信仰者を支え、どれほど強大な世の権力者の前でも恐れることはない。揺らぐことのない神への信頼とその力の核心を求め、いざという時に迷いなく主に信頼しよう。

2023/6/9(金) 担当 高谷清師 ヨハ16:4b-11 賛美 聖歌(総)538 聖歌 520

 主は「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」と語られる。主との離別を前にして弟子たち心は悲しみで満たされていた。主は「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」と語られた。父なる神から託された、世の罪の贖いのためのみわざ―十字架に架かり、血を流し、命を捨てること―を成し遂げられた主は、父なる神によって死から復活させられ、天に昇り、父なる神の右の座に着こうとされていたのである。主にとってそれは栄光の御座への帰還であり、神と神を信じる者の勝利の確立であった。更に弟子たちにとって、教会にとって弁護者―聖霊の降臨の約束成就の道であった。

 パウロは「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(ロマ3:21-26)と語っている。自分の義ではなく、神の義によって歩もう。

2023/6/10(土) 担当 高谷清師 ヨハ16:4b-11 賛美 聖歌(総)127 聖歌 172

 主は「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」と語られる。ジークフリート・シュルツは

「パラクレートスは最後に、その啓示者としての働きの中で、何が「裁き」であり、だれが実際すでに裁かれているのかを、明らかにする。ナザレ人イエスは、エルサレムとローマ―すなわちこの世― の十字架上で裁かれたのではない。むしろ裁かれて殺されたかのように思われる彼が、まさにその十字架死において、この世とその本来の支配者たる悪魔とを、征服したのである。そしてこのような裁きが、告知において既に成就されているのである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書390 NTD新約聖書註解刊行会1975) と記している。イエスも33節において「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ 16:33)と語っておられる。十字架においてキリストは勝利され、この世の支配者は断罪されているのである。勝利の主、復活の主に従おう。