2013/5/20-25

 

2013/5/20(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:25-29 賛美 新聖歌5・聖歌180
 著者は「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」と述べた後に、「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」と語る。
 全てが永遠の死に定められた罪の世にあって、私たちは自らの功績によらず、ただ恵によって揺り動かされることのない御国を受けた。それは神の愛によるのである。一方において神は一片の罪をも裁かずにはおかない義なる方である。従って私たちは救いの恵みを軽んじてはならない。これについてパウロは「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう(ロマ 11:22)」と述べ、「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい(フィリ 2:12)」と命じている。神の恵みを軽んじることなく、感謝と畏れをもって主に仕えよう。
 

 

2013/5/21(火)担当 ラウジー満世師 列王記上13:1-34 賛美 新聖歌315 聖歌503
 13章全体を読むと大変奇妙に感じる。ユダからやってきた一人の神の人が、べテルに対する神の言葉を伝える。それはヤロブアムと正しい王であるヨシヤと比較し、裁くものであった。この言葉は結局、後に成就される。13章においては全体を通してこの神の言葉の真証性が問われる。
 まず、ここで注目すべきは神の人の従順である。神の人は言葉を与えられたときに、食べること、飲むこと、そして道を戻ることを禁じられていた。神の言葉が実現するためには、その言葉を託されたこの神の人の従順が求められている。神の人は最初の王の誘惑であった申し出と、次の年寄りの預言者の申し出を賢明にも拒否した。しかし、老預言者は重ねて神の人を誘った。ついに彼はこの誘惑に屈してしまい、神の言葉への従順を貫けなかった。
 神の人は神の言葉を疑ったからではなく、逆に同労者である預言者を通して語られたと理解された神の言葉を重んじたがゆえに献身を貫き通せなかった。信仰は保ちつつも従順を貫き通せなかったのである。神に仕えるにあたっては、それぞれの立場と方法がある。そしてどこでどのように仕えるにしても、従順を貫くことが求められている。
 

 

2013/5/22 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 13:1 賛美 新聖歌399・聖歌585
 手紙の終りの部分を迎えて著者はいくつかの勧告を述べる。その第一は「兄弟としていつも愛し合いなさい」と言うものである。「兄弟愛」それは聖書の命ずるところであり、キリスト者の特徴である。主イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハ 13: 34)」と命じられた。パウロは「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい(?テサ4:9)」と語り、ペトロもまた「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい(?ペテ1:22)」と勧めている。今日のキリスト者にも兄弟愛を否定するものはいないであろう。しかし教会の歴史は互いの憎悪の歴史であった。それは聖霊による潔めと導きによって解決されなければならない。
 

 

2013/5/23(木)担当 ラウジー満世師 列王記上13:1-34 賛美 新聖歌391 聖歌541
 火曜日に続いて13章を読む。神の人はべテルに対する神の言葉を伝えた。そしてこの言葉が真実であり、神の言葉として実現されるのかが関心の的となる。神の人は神の言葉が成就されるために従順であることが求められたが、残念ながら彼は途中で誘惑に負け、獅子に裂かれてしまった。獅子は共に居たろばには一切危害を加えず、また神の人の遺体を食べることもしなかった。この異常な事態により、このことの背後に神の御手があることが理解される。果たしてこの従順を貫けなかった神の人のゆえに、神の言葉は効力を失い、語られた内容は将来において成就されないものとなってしまったのだろうか。13章を読むときに、老預言者の倫理性を疑わないではいられない。しかし、その仕打ちにもかかわらず、老預言者は最終的に神の人を葬り、骨を保護することを赦された。それは老預言者がべテルに対する神の言葉を信じきったからであり、また人間のいかなる行動や不従順によっても、最終的に神の言葉の実現が妨げられることはなかった。
 神の言葉は人を通して伝えられ、管として任命された人には神に従順でありぬく責任が課されている。しかし、神の言葉は人間の限界によってゆがめられ、無にされるものではなく、必ず実現する。さまざまな受け入れがたい事態を経験することがあっても、神の言葉は変わらず、真実である。ここに望みを置いて歩もう。
 

 

2013/5/24(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙13:2  賛美 新聖歌・聖歌
 勧告の第二は「旅人をもてなすことを忘れてはいけません」と言うものである。そして「そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」と語る。主イエスは譬の中で、王が正しい人に向かって「『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』と語ると、正しい人たちが王に『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』と言った時、王は『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』と答えている(マタ 25:35-40)。「旅人」とは、私たちの周りにいる、助けを必要としている人たちである。そのような人たちに遭遇した時「善いサマリヤ人」の譬えにおける祭司やレビ人のようであってはならない。
 

 

2013/5/25(土)担当 高谷由紀子師 ?コリ1:18-21 賛美 新聖歌359・聖歌424
 古来人間は洋の東西を問わず、神を、そして救いを捜し求めてまいりました。そしてたくさんの知者・賢者を輩出してきました。しかしそれらのどれ一つも神がご自身の視点からご覧になる時、人を救いに至らせるもの、人に永遠の命を得させるものはありませんでした。そこで神はご自身の愛の故に、人に救いを得させるため罪の無いご自分の独り子を遣わし、このお方に人のすべての罪を負わせて十字架につけることによって人を罪から解放し救いを得させる道を開かれました。このイエスを救い主と信じる者に救いが与えられるのです。これは世の知者・賢者には愚かに映るのです。しかし、これこそ神の知恵であり私たちの救いの唯一の道です。