2014/3/3-8

2014/3/3(月) 担当 高谷清師 ?コリ5:1-5賛美 新聖歌38

 パウロはコリントの教会に蔓延している罪を扱う。パウロが伝え聞いたところによると「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」と言うことであった。聖書は「父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである(レビ 18:8)」と語り、更に「父の妻と寝る者は、父を辱める者であるから、両者共に必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる(レビ 20:11)」と定めています。更に小畑進氏は「しかし近親相姦を禁じたのは、聖書の律法ばかりか、ローマ法でさえもこれを禁じ、一般の常識としても忌避していたのでした」(コリント人への手紙第一提唱)と述べておられる。
 キリスト者は主の十字架の御業によって律法から解放され、自由とされた。従ってキリスト者に対して律法は無効であると考える者たちがいる。しかし主は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない(マタ 5:17-18)」と語っておられる。世に生きるキリスト者は神のおきてと世の良き事柄を遵守し、神の御名が尊ばれるように生きねばならない。
 
2014/3/4 (火) 担当 ラウジー満世師 列王記下23:24-30 賛美 新聖歌331
 23章のはじめからヨシヤの改革について述べられてきた。国中に蔓延していたあらゆる偶像礼拝を断ち、ヨシヤは「まったくモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち返った」(23:25)。この書を読む私たちはすでに神が悪を行い続けるユダにも裁きを行うことを決断され、エルサレムの滅びが不可避であることを知っている。それでもなお、かつてソロモンが祈りの中で期待し、またヒゼキヤの時には不思議な方法でエルサレムが救われたことを知っている私たちは神が御心を翻してくださることを期待する。しかし、ここに至ってそれは起こらなかった。これほど高く評価されているヨシヤでさえも突然戦いの中で死ぬこととなった。なぜ神は正しい王を助けてくださらなかったのか?なぜユダの滅びを取り消してくださらないのか?と疑問は尽きない。
 しかし、ヨシヤは神の裁きが翻されないと聞いてなおその生涯を通じて申命記の言葉通り主を愛し、主に従った。この厳しい現状において神の憐れみが期待できないほどの厳しい裁きの言葉を受け止めつつ、神に対して不満や懐疑を訴えることなく、信仰者として生き続けたヨシヤの姿を見るとき、私たちの信仰が本物であるか、今一度問われているようだ。
 

2014/3/5 (水) 担当 高谷清師 ?コリ5:1-5賛美 新聖歌372

 コリント教会の内にみだらな行いをする者が存在するにもかかわらず、コリント教会の人々はそれを見過ごし、高ぶっていた。彼らは悲しむべきであり、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきであったにもかかわらず、放置していた。そこでパウロは「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています」と述べる。パウロは教会とその構成員について「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です(?コリ 12: 27)」と述べている。不品行を行うものを放置するなら、やがて教会全体を損なう。主イエスは「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである(マタ 5:29-30)」と語っておられる。私たちは、罪を発見した時、安易に見過ごしたり、見て見ぬふりをしてはならない。悪を排除し、聖を保たなければならない。
 
2014/3/5 (木) 担当 ラウジー満世師 列王記下23:31-35 賛美 新聖歌38
 ヨシヤの死後、彼の二人の息子が相次いで王となった。まず王位についたのはヨアハズであったが、彼については即座に「先祖たちが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。」と語られている。彼はエジプトの王に捕らえられ、廃位させられた。彼についでエジプトによって王として据えられたのは同じくヨシヤの息子であるヨヤキムであった。この王の神との関係については一言も触れられておらず、ただヨヤキムがエジプトにへつらい、生き延びようとしたことだけが短く記録されている。
 ユダ王国に対する神の裁きはすでに定められている。そして一時の希望となりうるかと期待を持たせた正しい王ヨシヤの後に続いた王は神との関係において正しい位置には立ち得なかった。もはやユダも先に滅びた北王国同様に、坂道を転げ落ちるように不信仰の中で滅びに向かって進んで行くしかなかった。ここに至るまで何度も御言葉によって悔い改めの機会を与えられてきたにもかかわらず耳を貸さなかったユダの最後の姿が記されている。今の時代に神とともに歩む私たちはユダ同様に罪を犯し続けていないだろうか。それを知る基準は御言葉である。
 
2014/3/7(金) 担当 高谷清師 ?コリ5:1-5  賛美 聖歌371
 兄弟と呼ばれる者―教会の構成員―が罪を犯した場合の処置について主は「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい(マタ 18:15-17)」と語っておられる。そして「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる(マタ 18: 18)」と言われる。それによって教会が忠告を聞きいれない罪人を懲戒することが正当であることがわかる。その処置は教会によって、主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まりなされなければならない。私心ではなく、神の御心により、複数の人々の合意によって決せられなければならない。
 

2014/3/8(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 5:21-24賛美 新聖歌459

 ヘロデがヘロディアと結婚しょうとしたときバプテスマのヨハネに「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と戒められ、バプテスマのヨハネを投獄した。しかしヘロデは「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」のである。しかしヘロディアはヨハネを憎み、殺害しょうと機会を狙っていた。折しも、高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いた自分の誕生日の宴席でヘロディアの娘の踊りを喜び、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓った。この機をとらえてヘロディアはヨハネの首を要求した。ヨハネが正しい聖なる人であることを知っていたヘロデは当惑するが、自分の体面を優先してヨハネの首をはねるのである。ヤコブは「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます(ヤコ 1:15)」と述べています。自分に死なず、人の関心を買おうとするなら、真理に歩むことは出来ないのです。