2014/1/20-25
- 2014.01.20
- ディボーションの友
2014/1/20(月) 担当 高谷清師 ?コリ4:1-5賛美 新聖歌 324
続いてパウロは「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と述べる。その根拠として「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」と語る。パウロが「自分には何もやましいところはない」と語っていることについてカルヴァンは「かれの全生涯についてではなく、使徒としてのかれの任務についてであることに注意しておきたい」(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P101))と述べている。
コリントの人々は、自らに遣わされた管理者を批評し、裁いていた。しかしそれは主の行われることである。パウロは愛弟子テモテに対し「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい(?テモ4:3-5)」と書き送っている。現今の状況にかんがみ、傾聴すべき言葉である。
2014/1/21 (火) 担当 ラウジー満世師 列王記下19:1-7 賛美 新聖歌364
アッシリアからラブ・シャケがユダに来てヒゼキヤとユダの人々に語った言葉は彼らにとって大きな脅威であり、人々は動揺した。しかし、民はヒゼキヤ王の言葉のとおり、沈黙を守った。彼らは脅しの言葉を聞いて心穏やかではなかった。将来についての希望がなく、恐ればかりが噴き出すような心持であった。そのようなときにもユダの民は一致してこの敵に対応した。
この状況を踏まえてヒゼキヤ王はどのように対応しただろうか。彼は神への信頼を捨ててアッシリアの言いなりになることもできたし、またそうすることが当時の世界情勢を見ても賢明な判断に見えた。しかしヒゼキヤは粗布をまとい、自らの無力を認めた上で使者を預言者イザヤに遣わし、ユダの民のために祈りを求めた。王は神がユダを助けてくださることを信じて、なお神により頼んだのである。神はヒゼキヤに答えてアッシリアが滅ぼされるという約束をしてくださった。
神は神を信頼して従う民を守ってくだった。しかしそれを受け取るまではなおヒゼキヤと民はしばらくの時を信仰によって待ち望まねばならなかった。私たちもそのような状況に置かれるかもしれない。しかし主を信頼して待ち望もう。
2014/1/22 (水) 担当 高谷清師 ?コリ4:1-5賛美 新聖歌 377
「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません」と述べていることについて、この箇所の文脈から離れるかもしれないが、考えてみたい。この箇所における「自分には何もやましいところはない」というパウロの言葉は、彼の使徒としての任務についてであることを見た。信仰生活においてパウロは「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです(ロマ 7:15)」と告白している。そして十字架を見上げたパウロは「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです(8:1-2)」と叫ぶ。先日手にすることのできたロイドジョンズのローマ書講解の帯に『聖化を目的とする人々は、自分自身と自分の様々な問題のことで終始する。しかし、使徒が何よりも関心を寄せているのは、私たちが「神の子ども」であると知り、悟ることであり、私たちが喜びに満ちながら、神をほめたたえ、「アバ、父」とよぶようになることである。―本文より』と記されている。神は私たちの罪と汚れ、一切を御子の血によって聖め、神の子としてくださった。それ故、私たちは自分にこだわるのではなく、十字架を仰ぎ、感謝と喜びをもって神を賛美しょう。
2014/1/23 (木) 担当 ラウジー満世師 列王記下19:8-13 賛美 新聖歌399
イザヤを通して与えられた約束を信じてヒゼキヤは耐えていた。しかし、状況はさらに厳しくなる。アッシリアの王は手紙を送りつけ、今度はヒゼキヤではなく、真の神を直接非難した。ヒゼキヤは神に信頼しているが、その神は無力ではないかとののしった。私たちは真の神を信じない者たちから同じような言葉を聞くことがあるかもしれない。「あなたは神を信じているというけど、神が何をしてくれるのか。あなたの信じる神は何もできないじゃないか。」このような挑戦を受けると、試練の中にあって耐え忍んでいる信仰がくじけそうになる。しかしそのようなときこそ御言葉を握り、全能の神を頼り続けよう。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(?コリ10:13)
2014/1/24(金) 担当 高谷清師 ?コリ4:1-5賛美 新聖歌 389
コリントの人々は自分の知識と思いによって人を裁いていた。私たちも日々同じことを行っている。しかしパウロは「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」と述べる。私たちは有限な存在である。すべてを知ることはできない。闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにして、裁くことができるお方は主だけである。だから、裁くことはやめよう。とはいえ、私たちの周囲には様々な情報があふれている。み言葉の解釈にしてもそうである。ある人はこう解釈し、他の人は違う解釈をする。私たちはそれらを取捨選択して自らの歩みを決めていかなければならない。しかし私たちは全知全能ではない。謝りやすい存在である。これを正しい道へと導いてくださるお方は聖霊である。それ故、常に聖霊により頼み、聖霊の導きに従って歩むことが大切である。
2014/1/25(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ18:1-4賛美 新聖歌408
イエスが、会堂長ヤイロの求めに応じてその家に向かわれる途上においての出来事が記されている。十二年間にわたって病んでいた一人の婦人がいた。多くの医者にかかり、全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえず、失意の中にあった。その頃、多くの人を癒されたイエスの噂を聞き、イエスに最後の望みをかけていた。そこにイエスが通りかかられたので、彼女は恐る恐る、その衣に触れた。すると、直ちに癒された。主は、恐れおののく彼女に向かって「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われた。
神の恵みは信じる者の上に豊かにあらわされる。日々、信仰によって歩みましょう。
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