2014/3/24-29

2014/3/24(月) 担当 高谷清師 ?コリ5:9-13賛美 新聖歌 395

 パウロは、今は失われた、本書簡よりも前に書き送った手紙において「みだらな者と交際してはいけない」と書き送った。しかし、この勧告はコリントの人々に誤った受け止め方をされたらしい。そこでパウロはその真意を伝えている。それは「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのであって、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではなかったのである。パウロは「もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」と言う。
 罪の世から主の憐れみによって選び出され、贖いの恵みにあずかり、救われ、神の清さに歩む者とされた私たちは罪に満ちた世と歩みをともにすることは難しい。しかし、肉にある間は世にあって不信者と共に歩まなければならない。特に、キリスト者が1%にも満たない日本においては、仕事において、日常生活において、不信者との協力は不可欠である。そのような中で、罪に染まらず、キリストを証しし、世の光となれるよう、聖霊に満たされて歩もう。
 

2014/3/25 (火) 担当 ラウジー満世師 列王記下25:22-26 賛美 新聖歌220

 エルサレムはバビロンによって破壊された。王と民は捕囚とされた。しかしパレスチナの地に残された人々もいた。それらの残された民の上に総督としてバビロンによって立てられたのはゲダルヤであった。今やバビロンの一属州となったユダはわずか10人の指導者によっておさめられるほど小さな存在であった。それでもこのゲダルヤは、神が何度警告しても神に立ち返らなかったユダを捨てられた(24:3, 20)事実を受け止め、現状においてはバビロンの王に仕えなさいという現実的な指導をしていた。しかしなおも神の御心を悟らない者たちがこのゲダルヤを暗殺し、エジプトへ逃亡した。
 かつて奴隷の地、エジプトから神の御手によって救われ、解放されたイスラエルの民が今自らその苦しみの地へと帰って行った。民自らが神の救いと恵みを捨て、逆行することを行った。愚かな行為である。しかし、私たちも彼らと同じ過ちを犯す危険は常に持っている。御言葉を日々読みなさいと勧められる、何のために読むのか。それは御言葉を通して神の導きと語りかけを聞きわけるためである。神の恵みに逆行していないだろうか?そのような問いを持ちながら、自らを神の前に精査しつつ御言葉と向き合おう。
 

2014/3/26 (水) 担当 高谷清師 ?コリ5:12-13賛美 新聖歌 372

 この箇所においてパウロは裁きについて述べる。裁きは外部の人々に対するものと内部の人々に対するものとに分けられている。主イエスは「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる(マタ 16:19)」、「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる(マタ 18:18)」と語り、パウロも「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」と述べている。教会は内部にある罪を裁き、その秩序と聖を保持しなければならない。ある人が内部にある不義を指摘し、責任ある立場にある人々に対処を求めたとき、責任ある立場の人々の中のある人は、対処を求めた人を「人を悪く言う者」として付き合いを避けたと聞く。このような考えが教会に蔓延し、教会は悪を取り除けなくなっており、教会の弱体化につながっているのである。教会は主から与えられた権能に従って聖を保持しなければならない。その裁きはもちろん、妬みや憎しみによってはならず、愛によらなければならない。
 
2014/3/27 (木) 担当 ラウジー満世師 列王記下25:27-30 賛美 新聖歌302
 ユダの民の一部の人々はエルサレム陥落後バビロンへ捕囚民として移され、そこで生活していた。同じくバビロンへ移されたユダの最後の王ヨヤキンは獄中生活を送っていた。しかし37年目にバビロンに新しい王が即位するとき、恩赦を受けて彼は獄から出された。そしてバビロン王の臣下として扱われるという地位を回復された。
 ここまで列王記を読んできた私たちは、神の原則をよく知っている。つまり、神に従うならば祝福を得、背くならばさばきを受けるというものであった。これは申命記から明確に示され続けてきたことであった。エルサレムの陥落を体験した民は、彼ら再三の警告にもかかわらず、神の戒めに背き、罪を犯した結果であるということを認識せざるを得なかった。神の民として捨てられ、希望を失った民に、ヨヤキンが赦されたというニュースが飛び込んできた。これは神の驚くべき恵みの業であった。律法を守り行うかどうかという条件を超えて、神は民に対する愛のゆえに、またダビデとの契約のゆえに、信じがたい赦しを与えられようとしておられる可能性が見え始めた。この驚くべき神の愛と赦しのゆえに、私たちも今日神と共に歩んで行けるのである。これがただ憐れみによって与えられた恵みであることをしっかりと覚え感謝しつつ歩もう。
 

2014/3/28(金) 担当 高谷清師 ?コリ5:12-13  賛美 新聖歌 396

 外部の人々の裁きについてパウロは「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか」「外部の人々は神がお裁きになります」と述べている。パウロは罪の報酬について「罪が支払う報酬は死ですロマ6:23)」と述べ、キリストに敵対して罪の道を歩む人々について「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません(フィリピ 3:18-19)」と言って、キリストの贖いの恵みの外にいる人々の受ける裁きに悲しみを表している。しかし人を裁くことについては「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです(ロマ14: 4)」と述べて、外部の人々を裁くのは主であることを示している。教会は彼らを裁くことではなく、愛をもって福音を伝え、彼らを救いに導くことを求められているのである。
 

2014/3/22(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ12:4-7 賛美 新聖歌311

 キリスト者の生涯もすべてが平穏無事に進んでいくというわけではない。戦争や迫害によって身が危険にさらされる時もある。そのようなときに私たちは、神様はどこにおられるのか、神様は私のことを忘れてしまわれたのかと疑問を持ってしまう。しかし主は、取るに足りない値段で売られている一羽の雀さえも、神は決して忘れておられない。そのようなお方が、私たちの髪の毛までも一本残らず数えられているとはっきりと語られた。さらに、『恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている』(12:5-6)と言われている。

 神は確かに一人一人の魂と体、すべてを御手によって治め、支配しておられる。故に死に至るような危険をもって迫る者は確かに恐ろしいが、それを恐れる必要はないのである。彼らは体を殺すことは出来てもその後それ以上何もできないからである。真に畏れるべきお方は殺した後で、地獄に投げ込む権威をもったお方、神様である。しっかりと目を主に向けよう。