2014/9/29-10/4
- 2014.09.29
- ディボーションの友
2014/9/29 (月) 担当 高谷清師 ?コリ10:13 賛美 新聖歌 427
パウロは、旧約における神の民イスラエルが、神の偉大な救いの業、出エジプトを体験したにもかかわらず、試練に耐えられず、偶像礼拝、みだらなこと、キリストを試みること、不平を言うこと・・・等々の罪を犯し、大多数の者が荒野で滅ぼされてしまったことを警告として述べた。このことは、出エジプトよりもさらにまさった御子イエスの贖いの恵みによって神の民とされながら、彼らのおかれた社会環境の中で、党派心、不品行、偶像礼拝、等々の罪の誘惑にさらされ、引き込まれようとしていたコリントの人々に恐れを抱かせ、不安に陥れることが懸念された。そこで彼らを励ますために記したのが本節である。パウロは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」と述べる。パウロは自分を襲った試練の一部について?コリント11:23−29で述べている。またヘブライ人への手紙の記者は11章において旧約の信仰者の直面した試練について述べている。
私たちは、試練に直面するとき、未曾有の試練であるかのように思い、右往左往する。しかし信仰の先輩たちも同じような試練に直面し、信仰によって勝利したのである。心を静めて主に信頼し、勝利しょう。
2014/9/30(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下1:18-2:9 賛美 新聖歌170
ソロモンが王として初めて行う事業である神殿と王宮の建築がいよいよ始まる。ダビデが準備をすでに始め、資材を集め始めてあるこの事業をソロモンが引き継いだ。神殿建築を引き継ぐにあたり、ソロモンが最初になすべきことは人材と資材を集めることであった。ソロモンもまたティルスの王フラムに手紙を送り、協力を求めた。その中でソロモンは神殿建築が重要な働きであることを知っている。4節には「わたしが建てようとしている神殿は大いなるものです。」と記しており、神殿を大いなるものとしているのは神ご自身の偉大さであるということをしっかりと認識している。建築を行うソロモン自身はこの偉大な神の前に決して力のあるものではなく、偉大な神を制御できる存在でもないことをしっかりと認識しつつこの働きに取り掛かっている。
神殿建築者としてのソロモンの大切な信仰姿勢がここにあらわれている。偉大な建築事業をなすとき、人々は完成した建造物を見てその事業を行った王を偉大な人物と評価する。しかし、ソロモンは自分が偉大なのでは決してないこと、神ご自身のみが比べる者なき大いなる方であることをしっかりと告白している。私たちも、神が偉大な方であることを常に覚えよう。
2014/10/1 (水) 担当 高谷清師 ?コリ10:13 賛美 聖歌 327
続いてパウロは「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」と述べる。主イエスも、終末を前にして襲いかかる苦難について「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。(マタ 24:21-22)と語っておられる。試練に遭遇するときにも主は必ず私たちを助け、お守りくださる。御言葉を信じ、忍耐して待ち望もう。
2014/10/2(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下1:18-2:9 賛美 新聖歌266
先日は、神殿建築にとりかかったソロモンが偉大な方は神のみであることをしっかりと心に留めていたということを見た。神殿はその偉大な神の臨在の場所であるがゆえにそれが大いなるものであることをソロモンは理解していた。しかし、同時にソロモンは建物それ自体を神格化して扱ってはいない。神殿が大いなるものであると語りつつ、同時にソロモンは「神殿はただ主の御前に香をたくためのものでしかありません。」と述べている。
一見矛盾した言葉である。しかし、大切なことである。神が住まわれる場所、名を置かれる場所としての神殿は非常に大切なものであり、決してないがしろにしてはいけない。道具の一つ一つに至るまで清められ、適切な恐れをもって扱わなければならない。しかし同時に、それ自体が神ではない。神殿は礼拝の対象ではない。
当然のことである。ごく普通のことである。しかし、私たちも同じような間違いをしてしまう。神のために恐れをもってなした働きの実を見て、結果として出来上がったものを神格化し、偶像のように扱ってはいないだろうか。出来上がったもののゆえに自分が誇り、自分が称賛を受けてはいないだろうか。建物に限らず、私たちの信仰生活において、神のために必要な働きを忠実に行い、神に栄光を帰する歩みを続けよう。
2014/10/3(金) 担当 高谷清師 ?コリ10:13 賛美 新聖歌 320
本節においてさらに一つの言葉に注目したい。パウロは「神は真実な方です」と述べる。ロマ書においてユダヤ人について記したところで『それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです(ロマ 3:3-4)』と述べている。また?テモテにおいては「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである(?テモ 2: 13)」と述べている。今日、教会の、そして教職者の不祥事が頻繁に伝えられる。また、信頼していた、模範的キリスト者と思っていた人の背信行為に遭遇することがある。その度に繰り返される「教会も赦された罪人の集まりだから、教職者も人間だから」と言う言い訳はすまい。これらの行為は、教会に、神のことばに不審の念を抱かせる。そのような時には先のみ言葉を思い起こそう。キリストは常に真実であられ、御自身を否むことができないお方であることを。
2014/10/4(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハネ1:40-42 新聖歌302
アンデレはイエスの十二弟子のひとりです。ここにはアンデレが初めてイエスに出会った時のことが書かれています。彼は兄弟シモンに会って「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言いました。また彼はのちに、大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年をイエスのもとに連れてきました。このようにアンデレは日常生活の中で身近にいる人々をイエスのもとに連れて来ています。彼は華やかで目立つ行動をする人ではありませんが、謙遜に、忠実に証しし、仕えた人でした。もしアンデレが兄弟ペテロをイエスのもとに連れてこなかったなら、福音書に記された素晴らしい主の業を見ることはできなかったかもしれません。
アンデレのように目立たなくても素晴らしい働きをする人を通しても神様は働かれます。私たちも身近な人に福音を伝えることを忠実に行っていきましょう。”,,988″
-
前の記事
2014/9/22-27 2014.09.22
-
次の記事
2014/10/6-11 2014.10.06