2019/1/14-19

2019/1/14 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 284

 イエスの行われた奇跡を目にした人々の報告を聞いたファリサイ派の人々と祭司長たちは危機意識を抱き、最高法院を召集して「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」と言った。それは白日の下、衆人環視の前で行われ、何人も否定し得ず、イエスが神から遣わされたメシヤであることを示すものであった。従ってファリサイ派の人々と祭司長たちは、人々が自分たちのもとを去ってイエスを信じるようになることを恐れたのである。そこでイエスを無き者にしょうとして大義名分を考案した。「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と言うものであった。これについてジョン・C・ライルは「パリサイ人らがこの結論に達した過程は、次のように想像される。「この人物を放っておくと、その周りに多くの信奉者が集まり、彼こそ王なる指導者だと言いふらすようになる。当面の支配者であるローマ人は、これを聞きつけ、自分たちの権威に対する反逆だと考えるであろう。すると、軍隊を遣わし、私たちを反逆者として処遇し、エルサレムと神殿とを破壊し、かつてパビロニヤ人がしたように、ユダヤ国民すべてを捕囚とするにちがいない。」(ライル福音書講解ヨハネ3P106聖書図書刊行会1987)と述べている。更にカルヴァンは「わたしたちの時代の姿が如実に描き出されているのを見る。賢明で、分別があり、見とおしがきくと見られたいと思うひとたちは、なにかにつけてこのきまり文句を口にするのである。公共の平安と一般の管理とに意を用いなくてはならない。わたしたちが導入しようと努めている改革は、多くの危険と大いなる災厄とを伴わずにはいない、と。このいつわりの野望をわたしたちに設定すると、かれらは、あらゆる混乱を防止するのに、これ以上手っとり早いやりかたはないとばかりに、ひたすらにキリストの記憶を埋没し消し去ろうとする。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下P392新教出版社1965)と記している。今日、「公共の平安と一般の管理とに意を用いなくてはならない。」という美辞のもとに、御言葉よりも組織の安寧、保全が優先されていないだろうか。御言葉の真実を生きよう。

 

2019/1/15(火) 担当 ラウジー満世師 )エレミヤ書49:34-39 賛美 新聖歌165 エラムに対する預言の冒頭には具体的な時代が記されている。これは南王国が滅ぼされる十数年前にあたる。しかし時代がある程度限定されているにもかかわらず、具体的にエラムが当時どのような状況にあったのかははっきりわからない。ここでも神ご自身がこの国を滅ぼされると言われる。具体的にそれが災害によるのか、戦争によるのかも明言されないが、ただ神が風を天の四隅から放つだけでこの国を滅ぼされる。偉大な神の力が改めてしめされている。さらに主の激しい怒りのゆえにエラムが滅ぼされ、神の御心に従って終わりの日に回復されるといわれる。ここでエラムの罪については指摘されていないが、これまでに語られた様々な国々への裁きから、エラムもまた神の御心に従わなかったのだと理解できる。 天地を治める神は、大いなる力をもっておられる。この神に造られた私たちは、この偉大な神の前で御心に従って生きることを日々求めたい。 

2019/1/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美聖歌 273

 会議が始まるとその年の大祭司であったカイアファが「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」と言った。この箇所についてジョン・C・ライルは「カヤパ[口語訳]の結論は簡潔明瞭である。それを要約的に述べている。「この男は葬られねばならない。罪の有無はともかく、全国民の益のためにひとりの人が死ぬほうが、国民全部が苦しめられ、滅ぼされるより、はるかに好ましい。もし、この人物に手をかけ、干渉すれば、罪なき人を傷つけることになると、あなたがたは考えている。そのような幼稚なためらいは捨てよ。彼を抹殺しよう。殺してしまうのが得策だ。彼を生かしておいて、そのせいで全国民が苦しむより、彼が死んで、全国民が苦悩から救われるほうが、ずっとよい。」カヤパ[口語訳]には、これ以上の意図はなかったと思われる。彼は、キリストの死が民にとって益であり、生かしておくとユダヤ国民に危害が及ぶと主張する。そのことばに込められた含蓄が、それ以下であったとは思えない。」(ライル福音書講解ヨハネ3P111聖書図書刊行会1988)」と述べている。「全体の益」という大義名分のために神の言葉、正義と公正、愛が歪曲されてはならない。どんな時にも神の言葉、正義と公正、愛に生きよう。それこそが祝福と命の道である。 

2019/1/17(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:1-7 賛美 新聖歌427 諸国に対するさばきの言葉の最後に非常に長いバビロンに対するさばきが語られている。バビロンへのさばきは当事者だけではなく諸国民に旗を掲げて布告される。バビロンが裁かれる理由となった罪について述べる前にまずバビロンの人々が信じていた偶像であるベルとマルドゥクが砕かれたといわれる。現実には主を信じる南王国ユダがバビロンによって滅ぼされたとき、当時の人々はベルとマルドゥクがイスラエルの神よりも強いと考えた。しかし人々が滅ぼされたと考えたイスラエルの神はバビロンの偶像の神ゆえにバビロンの国を荒廃させると語られる。人間はいつの時代にも自分の手で作った像に信頼を置き、とてつもない力のある神として扱う。しかし真に力ある方はイスラエルの神おひとりである。 

2019/1/18(金) 担当 高谷清師  詩 40:15-16  賛美 新聖歌 179

 詩人は「わたしの命を奪おうとねらっている者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き、わたしに向かってはやし立てる者が/恥を受けて破滅しますように。」と詠う。このような句に出会う時、我々はしばしば当惑を覚える。何故なら、主イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタ 5:43-44)と教えておられるからである。この箇所についてA. ヴァイザーは「ここで言われていることは、単に低次元の余りにも人間的な憎悪から来ているのではない。旧約聖書の契約宗教は此岸的な性格を備えていたために、神を信じない者たちの存在は常に一つの解きがたい宗教的な謎であった。それゆえ敬度な者は敵の嘲りのうちに神に対する冒瀆を聴き取り、神を信じない者たちが契約共同体から排除された時にはじめて、神の現実についての確証を得たと考えたのである。いずれにせよここでは他の多くの場合と違って、神なき者たちの滅亡ではなく恥辱を祈り求めていることが注目に値する。明言されてはいないにせよ、この点に、彼らが最終的に神に立ち帰る可能性が残されているのである」(ATD旧約聖書註解詩篇上P446ATDNTD聖書註解刊行会1983)と述べている。神を信じない人々の内に巣食う、神に対する冒瀆を憎み、排し、その魂を愛し、救いのために祈るべきである。 

2019/1/19(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:2-4 賛美 新聖歌 284ヤコブは「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」と言っています。そして、その求め方について「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」と語り、疑いつつ神に求める人について「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」と語っています。「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」と訳されているところを口語訳聖書は「そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」と訳しています。神様の前に祈り求めるときは、全き信仰に立つことが大切です。