2015/9/14-19
- 2015.09.14
- ディボーションの友
2015/9/14 (月) 担当 高谷清師 ?ペテ1:13-16 賛美 新聖歌 427
ぺトロは1:3−12で言及した祝福を受けて「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と勧める。「イエス・キリストが現れるとき」について主は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである(マコ13: 32)」と語っておられる。更に主は「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。(ルカ12: 40)」と述べておられる。箴言には「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。(箴14:12)」と記されている。私たちの目に良いものとされるもの―地位、財産、レクリエーション、名声、交友、学歴、権戚といったものに心惹かれて主から離れることのないようにしょう。主から離れる気はないが、一時だけ、悪いものではないから・・・その間に主は来られるかもしれない。全身全霊をもって主と共に歩もう。
2015/9/15(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書8:1-10 賛美 新聖歌280
続けてユダへの神のメッセージが語られる。それはイザヤの子の名前としても示される。すぐにでもユダとイスラエルが略奪されるだろうという、恐ろしいメッセージであった。さらに神が続けて言われることは、ユダが頼ろうとしているのは、近くにある神の力ではなくアッシリアという当時の世界大国であり、それは人間の力に頼ろうとしているのであった。しかしその大国はユダを助けるどころか、彼らの上にも襲い掛かり、破壊するであろうという。このメッセージはユダに語られているのか、北イスラエルを含めた反アッシリア連合を組む国々に語られているのか定かではないが、いずれにしても『真の神に頼れ』と言われながらもその神に従わずに、人間の力に頼ろうとすることの愚かさを明らかにしている。
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩編46:1)との御言葉を暗唱し、励まされているクリスチャンは多いだろう。本当の意味で信仰が試され、自分の力ではなく神を信じて頼ることが求められる時にこそ、日々頼りにしているこのみ言葉にしっかり立って歩みたい。アハズ王のように不信仰に陥らないように。
2015/9/16(水) 担当 高谷清師 ?ペテ1:13-16 賛美 新聖歌 361
続いてぺトロは「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり」と勧める。キリストを知らなかった時には平気で行っていたことを、キリストを知ることによって、それが罪であると知らされることがあるであろう。しかし強い肉の欲に引きずられてやめることが出来ない、と言ったことはないであろうか。これに対してぺトロは、「従順な子となりなさい」と語る。
現代は価値観の多様化した時代だと言われる。児童、生徒に対して「学校に行きたくなければ休みなさい」と言われる時代である。殺人を犯した者がその動機について「人を殺してみたかったから」と言う時代である。道徳的、倫理的規範が失われ、欲望のままに行動することを是認せよと要求する時代である。しかしキリスト者には厳然とした規範がある。それは神のことば―聖書である。主は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(ルカ21: 33)」と述べておられる。パウロは「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。(?コリ9:27)」と述べている。御言葉に従順な子となろう。
2015/9/17(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書8:11-23 賛美 新聖歌137
私たちの生活の中で、しばしば信仰によって選ぶべき道を行くよりも、周りに歩調を合わせていく方が良いという思いに駆られる。選ぶべきである、より困難で孤独に見える道がクリスチャンとして好ましい道だが、確信が持てない、というときにはなおさら、周りに歩調を合わせたという思いが強くなる。仮にそれがみ言葉に照らして最善の道ではないと感じてはいても、周りと歩調を合わせることによって孤独からは解放され、仲間と共にいられるという安心感が得られる時には、最終的には悪い結果が待ち受けていたとしても一時的には好ましい環境に身を置けるということもあるだろう。
まさにそのような状況で語られたイザヤの言葉は民と同じ道を行くよりも、聖なる方に従う道を行きなさいと言うことであった(8:12)。そのためにはしばし待たなければならないこともある(8:17)。それでも恐れるべき方、聖なる方に従う道が最善である。このことを心に留めておきたい。
2015/9/18(金) 担当 高谷清師 ?ペテ1:13-16 賛美 新聖歌 372
続いてぺトロは「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」と勧める。それは、私たちを召しだしてくださったお方は聖なる方だからである。この箇所を新改訳聖書は「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」と訳している。私たちは自らの力で聖なるものとなることはできない。十字架の贖いの恵みによってのみ、聖なるものとなることが出来るのである。同時に飢え渇いて求め続けるのでなければ聖なるものとなることはできない。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタ 7:7-8)」と約束されているからである。日々主に祈り求めつつ歩もう。
2015/9/19(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハネ 1:40-42 新聖歌302
アンデレはイエスの十二弟子の一人です。ここにはアンデレが自分の兄弟であるシモン・ペトロに、自分がイエスに出会ったことを証し、シモン・ペトロを主のもとに連れて行ったことが記されています。またヨハネによる福音書六章にはイエスがおおよそ五千人を養われた奇跡のもととなった、大麦のパン五つと二匹の魚を持った少年をイエスのもとに連れてきたことが記されています。このようにアンデレは日常生活の中で身近にいる人々をイエスのもとに導いています。表立った、働きではありませんが、謙遜に、忠実に証し、仕える人でした。アンデレの働きがなければ多くの素晴らしい主の働きを見ることはできなかったでしょう。私たちも、人々の注目を集めることはできないとしても、忠実に主に仕えましょう。”,,1081″
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