2016/5/9-14

2016/5/9 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3:17-18 賛美 新聖歌 414
 ぺトロは「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」と語っている。キリストは罪の無いお方、それ故、死の支配の及ばないお方であられたが、私たちの罪をご自分の身に負い、その罪の故に死んでくださったのである。しかし父なる神は御子を黄泉に捨ておくことはなさらず、聖なる霊によって御子を死者の中からよみがえらせ、神の子と定められたのである。パウロが「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ロマ 1:3-4)と述べているとおりである。地上に在られたとき主は「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタ10:28)と教えられた。世に在る迫害者は肉体を殺すことはできても、魂を滅ぼすことはできない。神から賜った永遠の命を奪うことはできないのである。

2016/5/10(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書37:14-20 賛美 新聖歌358
 アッシリアの脅威にさらされる只中でヒゼキヤは主の前に出て祈った。もちろん神に救いを求めているのである。もし私たちが絶体絶命の状況で即座に救われることを求めるなら、口を開いて第一に祈る言葉はどのようなものだろうか。「神様、助けてください。私は今これほど大変な状況に居るのです。」と訴えることが大半ではないだろうか。しかしヒゼキヤは神を賛美し、神を認めることから始めている。緊急事態にあってこんな暇はないと考えるかもしれない。しかし緊急事態においてこそ、神を正しく認め、頼るべきお方であることを知っていなければ、心から神に信頼を寄せた祈りは生まれない。神が創造者だからこそ危機においてユダを救うことがおできになる。人の手で作った物ではなく、創造者であり統治者である神にこそ救いを求める。神はご自身の栄光を知らせるために祈りを聞いてくださる。
 創造者なる神が力ある神であり、このお方が信じる私たちの祈りを聞いてくださる。確信をもって祈り続けよう。

2016/5/11(水) 担当 高谷清師  ?ペテ3:19-20  賛美 新聖歌 176
 ぺトロは「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」と語る。この箇所について小畑進は『ところでなのですが、その「肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした」と、キリストの受難の崇高な目的を述べたのち、ベテロの思想は、突如として飛躍します!すなわち、この「霊においては生かされて」という言葉が、彼の思想に翼をつけたのでしょう。霊におけるキリスト――肉体に制約されないキリスト――受肉以前のキリスト――そのキリストが「その霊において)」。つまり受肉される以前、旧約時代に、霊のままで人々を神に導いておられたことに思いいたったのです。その後、幾時代をへて、地獄に落ちている者たち、地獄の「捕らわれの霊たち」にさえ、キリストは霊において預言者たちを通して「かえれや神に」「来たれや神に」と、みことばを語られていたのです。』(小畑進著作集第5巻ペテロの手紙第一講録P332−333いのちのことば社)と述べている。受肉以前のキリストはノアの時代の邪悪な人々に、霊において、ノアを通して宣教されたのである。邪悪な人々に対するキリストの招きの言葉は時代を貫いて、今も響き渡っているのである。

2016/5/12(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書37:21-29 賛美 新聖歌427
 ヒゼキヤの祈りを聞かれた神はイザヤを通して応えられた。確かに神はヒゼキヤの祈りを聞いていると言われ、アッシリアの王に対して語り始められた。アッシリアが弓を引いたのは実はイスラエルの背後におられる聖なる方、真の神であった。アッシリアはイスラエルのみならず、エジプトも征服したと傲慢になり、自分たちの手柄を並べ立てている。眼前の状況を見て、当時あらゆる国々と人々がアッシリアを恐れた。それにもかかわらず神はアッシリアの力を否定し、このことが起こったことすら、神のご計画が成就されただけだと言われる。
 勝利者や成功者が優れた者だという視点によって社会の評価は下される。しかし神は違ったところから見ておられる。力ある方は常に神であり、人間社会において有力なものもすべて神の御手の中にある。神が人を用い続けられるかどうかは栄光を神に帰するか否かによる。神の御名をほめたたえ、神に栄光を帰そう。

2016/5/13(金) 担当 高谷清師  詩編18:47-51  新聖歌 325
 この詩篇の最終部分を迎える。ダビデは理不尽な迫害者によって命をつけねらわれ、苦難の日々を強いられた。しかし主はダビデと共におられ、その命は主によって守られ、すべてについて勝利を与えられた。その時点に立って過ぎた日々を振り返り「主は命の神」と告白する。そして、すべての危機から助け出し、勝利を与えてくださった主に感謝をささげ、み名を誉め歌っているのである。そして「主は勝利を与えて王を大いなる者とし、油注がれた人を、ダビデとその子孫を、とこしえまで慈しみのうちにおかれる。」との信仰告白をもってこの詩を閉じている。
神は値無き者を選び、御子の血潮による罪の赦しの恵みに与らせ、永遠の命を得させ、それにもかかわらず、恵みから迷い出ようとするものを守り、導いてくださったのである。この恵みの主に感謝をささげ、新たな信仰告白をもって主に従おう。

2016/5/14(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハネ1:40-42  賛美 新聖歌324
 アンデレは十二弟子の一人であった。彼は先ず、自分の兄弟シモンに会って「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。また、彼は大麦のパン五つと魚二匹とを持った少年をイエスのもとに連れてきた。更に彼は面会を求めるギリシャ人をイエスに紹介した。このようにアンデレは日々の生活の中で身近にいる人々をイエスのもとに導いている。彼は華やかに目立つ行動ではないが、謙遜に、忠実に福音を証しし、伝えた人であった。もしアンデレがぺトロをイエスのもとに連れて来なかったら、福音書に記されている素晴らしい主の業を見ることはできなかったであろう。私たちは先ず、身近な人々に福音を証しし、伝えることから始めよう。”,,989″