2017/7/17-22
- 2017.07.17
- ディボーションの友
2017/7/17(月) 担当 高谷清師 ヨハネ4:43-54 賛美 新聖歌 282
サマリアでの働きを終えたイエスはサマリアを出発して二日後、ガリラヤに到着された。これを聞いたカファルナウムに住む王の役人は早速イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。それは息子が死にかかっていたからであった。イエスは彼に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。それに対して役人は「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。役人は危篤の息子を抱えて必死であった。イエスが息子のところに来て奇跡を行って下さらなければならなかったのである。しるしや不思議な業を見なければ、決して信じられなかったのである。しかしイエスは彼に対して「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と言われた。役人はイエスの言葉を信じて帰途に就いた。途中、迎えに来た僕たちによって息子の病気が良くなった時刻とイエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを知って、信じることの素晴らしさを知ったのである。見なければ信じない者ではなく、聞いて信じる者になろう。
2017/7/18(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書6:1-8 賛美 新聖歌166
エルサレムがついに戦いの舞台になった。4章に引き続き、北からやってきた軍隊がエルサレムに襲い掛かる。これまでエルサレムは不滅だと信じてきた民はエルサレムを出てさらに南へ逃げるよう警告される。敵は昼夜を問わず攻撃を仕掛ける。しかしこの敵の恐ろしさはその怒涛の勢いだけではない。敵の指揮をとられるのは「万軍の主」である。イスラエルの神がなぜ敵を指揮してエルサレムに襲い掛かるのか?あるいは、神を信じない人々と共に神が働かれるはずがないと考えたい。しかし、神は世界の主であり、あらゆるものの創造者である。神の民が頑なになり、懲らしめが必要な時、神はあらゆる人に語り掛け、御心のために用いることのできるお方である。
皮肉な方法であるが、ここではエルサレムを滅ぼす敵の背後に主なる神が居られることによって改めて神が世界の創造者、支配者であることを知る。
2017/7/19(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 5:1-9 賛美 新聖歌 216
イエスはユダヤ人の祭りがあったのでエルサレムに上られた。「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」と記されている。この描写から推測されることは、ここに集まっている人々は病気治療のためにあらゆる手を尽くしたが効なく、医者から見放され、「ベトザタ」と呼ばれる池に「主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされる」と言う言い伝えに最後の望みを託した人々であった。イエスはその中の一人に目をとめ、「良くなりたいか」と言われた。彼は答えて「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と言った。イエスは彼に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われた。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
病める人々、弱い人々を世は見捨てるが、主イエスは誰をも見捨てず、語りかけられる。主の御言葉を聞くとき、聞いただけでなく、直ちに行うことが大切である。
2017/7/20(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書6:9-15 賛美 新聖歌396
エレミヤもイスラエルの民の一員であった。北から迫り来る敵の攻撃の中で彼自身も苦しんでいる。さらに神はエレミヤに対してもう一度、「お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ」(6:9)と言われる。十分苦しんでいる民にさらに神の警告を告げなければならない。この苦しみに加えて、預言者の目の前にいるのは神のことばを侮って真剣に聞くことをしない民である。神を軽視し、侮る態度はエレミヤにも向けられた。決して聞く耳を持たず、そればかりか真実を語る預言者を蔑む民に対しても真実と愛をもって語り続けることが、預言者にとってどれほど厳しい働きであろうか。実際に多くの宗教指導者はむなしい虚偽の「平和」を語った(6:14)。エレミヤ書で繰り返しあらわれる事態である。
いかに神のことばを受け取って、民を恐れず、あきらめることなく、愛を持って真実を語り続けるか―牧師のみならず、神との正しい関係に生きるすべてのクリスチャンが直面する課題である。神に従い続ける力の源はただ神のみである。
17/7/21(金) 担当 高谷清師 詩編33:12 賛美 新聖歌 2
ダビデは「いかに幸いなことか/主を神とする国/主が嗣業として選ばれた民は。」と詠う。最初に「主を神とする者」について考えてみたい。それは信仰者である。私たちが神を知らなかった時には自己が自分の神―最高指揮者―であった。即ち自分の意思に従って生きてきた。しかし神を知り、信じた時からは神の御心に従って生きる者となった。次に「主が嗣業として選ばれた民」について考えよう。主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハ 15:16)と語っておられる。神によって選び出され、神の御心を自分の心として生きる者こそ、幸いな者である。神は天地の造り主にして支配者、その御言葉は正しく、御業はすべて真実、恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちているからである。恵みの選びに感謝し、主の御心を生きよう。
2017/7/22(土)担当 高谷由紀子師 ?コリ1:3-7 賛美 新聖歌416
パウロは主から受けた福音宣教の使命を遂行していくうえで?コリ11:23-28に記しているように、数々の試練と苦難に遭遇しました。その試練と苦難に勝利させたのは十字架を通して勝利された主イエス・キリストでした。パウロはこのお方を「忍耐と慰めの源である神」(ロマ 15:5)と呼んでいます。パウロはキリストの故に受けた苦難に、キリストから与えられた慰めによって勝利し、同じ苦難の中にある人々をも慰めることが出来たのです。私たちもキリストに結び付くことによって人々の慰めとなる聖徒となりましょう。”,,727″
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