2018/2/26-3/3
- 2018.02.26
- ディボーションの友
2018/2/26(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7: 25-31 賛美 新聖歌 344
この箇所には祭りのためにガリラヤから登ってきた群衆とは違う「エルサレムの人々」が登場する。彼らは指導者たちがイエスを殺そうとしていたことを知っていた。しかしイエスが神殿の境内で公然と教えておられるのに何も言われないのを見て「議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」と考える者も現れ始めた。そして彼らの間で議論が始まった。ユダヤの人々にとってのメシアは、ダニエルが「夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み」(ダニ 7:13)と記しているように、超自然的に現れるものであり、マラキ書が「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(マラ3:1)と記しているように突如としてあらわれるものであった。しかし彼らはイエスの出自を知っていた。それによって彼らはイエスをメシアと認めることが出来なかった。
イエスは彼らに「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。」と言われる。エルサレムの人々はイエスを肉において知っていたが、霊において知らなかったのである。イエスのまことの姿は信仰によってのみ、知ることが出来る。
2018/2/27(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:20-23 賛美 新聖歌396
ここでは王個人の将来ではなく、エルサレム全体の将来が見通されている。20節にはこの町の北、東、南にある地域の名があげられている。これらの地はかつてイスラエルに与えられると約束された土地であったが、エレミヤの時代にはもはや彼らが足を踏み入れることができない場所であった。エルサレムが栄えていたころには彼らは神の警告や律法に耳を貸さなかった。自分の力で何でもできると思っていた彼らは、自由を奪うように見える神の導きに耳を貸さなかった。その結果、彼らには避けられない罰としての恥が待っている。
物事が調子よく進むときには神に頼らず、神の導きに耳を傾けず、戒めを蔑ろにする。神を自分の王とするのではなく、自分が自分の人生の主となってしまう。その結果最終的には罰を受ける。はるか昔のイスラエルだけにかかわる話ではない。祝福を受けているときも、私たちは常に主の御手で守られている者であり、主に仕えて従うべきことを忘れずに歩もう。
2018/2/28(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7: 25-31 賛美 新聖歌 201
イエスは「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。」と語ってご自分をあらわされる。先ず、イエスは遣わされた者であることを明らかにされる。遣わされた者であるイエスは「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。(ヨハ 5: 19)と語っておられるように常に父なる神の御心を行われた。またゲッセマネの園で「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マコ 14: 36)と祈られたように、父なる神の御心に従順であられた。パウロが「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:6-8)と述べているとおりである。私たちも御子の血潮によって贖われ、神の子とされた者として常に神に従順な者でありたい。
2018/3/1(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:24-30 賛美 新聖歌343
ユダの王は神に選ばれて立てられた。しかし24節では指輪の比喩を用いて神がコンヤ(エホヤキン、ヨヤキン、エコンヤなどとも呼ばれる)を選ぶのではなく、捨て去ると言われる。民の目にはこの王こそ神に選ばれた者であったから、他国に捕らわれることなど考えられなかった。しかし実際の歴史において彼は家族ともども捕囚の地に連れられて行き、彼の子孫は誰一人としてダビデの王座についてユダを治めた者はいなかった。神が「捨て去る」と言われた言葉は成就したのである。
神の選びとは何だろうか。一度選ばれたらそれが永遠に続くと私たちは考えたい。もちろん神は気まぐれによってころころと変わるような方ではない。しかし神の者とされていながら神を無視して自分の思うままにことを進め、神の御心にかなわないことを行い続けるなら、神はその者を「見捨てる」という選択もなさるのである。私たちは神との関係の中で生かされている。この関係を正しく保つためには私たちが神の声と導きに耳を傾け、日々応答することが必要である。
2018/3/2(金) 担当 高谷清師 詩 37:1-2 賛美 新聖歌 281
神が全能者であり義なるお方であるなら、神に従う者が繁栄を享受し、神に逆らう者、神を信じない者が苦難を受けることは信仰者の要請である。しかし、世の現実はそれとは逆である。ダビデは人生半ばにして不条理な現実から解放された。しかしヘブライ人への手紙が記すように、不条理な現実のもとで、悪事を謀る者や不正を行う者たちの手によって、世においては報われること無く非業の死に追いやられた信仰者も多い。このような現実を前にして信仰者に二つの誘惑が忍び寄る。その第一は「いら立ち」である。この箇所を口語訳とカルヴァンは「心を悩ますな」、新改訳は「腹を立てるな」A.ヴァイザー(ATD)は「憤るな」と訳している。第二は「うらやむ」ことである。この語を口語訳と新改訳は「ねたみ」、カルヴァンは「嫉妬」ATDは「嫉むな」と訳している。「神なぞいるものか」と豪語して生きる者の繁栄を見て、彼らに苛立ち、憤りを覚え、彼らをうらやみ、彼らに倣おうとして秘かに信仰を捨てることがあってはならない。何故なら「彼らは草のように瞬く間に枯れ、青草のようにすぐにしおれる。」からである。ルカが記すラザロの物語は、彼らが繁栄の内にこの世の生涯を終えたとしても、滅びに至ることを示している。固く信仰に立って歩もう。
2018/3/3(土)担当 高谷由紀子師 マコ 14:66-72 賛美 新聖歌 32
ぺトロは力を込めて「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(マコ 14:31)と言い張りました。しかし主が捕えられ、裁判の席に着かれる事態に至ると「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と言う人々の言葉に狼狽して三度もイエスを「知らない」と言いました。人間の決心はこのようにもろいものです。しかしその後ぺトロは本心を取り戻し、悔い改めました。それによってイエスに留まることが出来ました。ぺトロと同じ弱さを持っている私たちも罪を知ったならすぐに悔い改めて主に立ち返りましょう。”,,659″
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