2018/4/23-28

2018/4/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:1-11 賛美 新聖歌 369
 訴える者たちが去った後、イエスは「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と問われた。それに対し婦人は「主よ、だれも」と答えている。ここに一つ、大きな見落としがある。主は「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(マタ 25:31-33)と述べておられる。私たちの罪を負い、十字架に架かり、救いの御業を成し遂げ、甦り、天に帰られた主は、やがて再び裁き主としておいでになる。その時にはすべてのものが裁かれるのである。イエスはこの婦人を解放するにあたり「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われた。ヘブライ人への手紙は「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」(ヘブ 10: 26)と述べている。救いの恵みに与った私たちは、罪を犯し続けることがあってはならない。

2018/4/24(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:1-6 賛美 新聖歌263
 先に7章でエレミヤが神殿で語った預言を読んだ。ここには再度同じメッセージが記されている。エレミヤが神殿の庭に立って語ったことは変わっていない。エレミヤは忠実に神のことばを語っており、それは民が神の律法に背き続けるならば主が災いを下され、人びとが信頼を置いている神殿を荒廃させるというものであった。
 人々の心は変わりやすい。人々はいつも変わらず神に仕えていると考え、そのように行っていたとしても、日々移り変わる時代や政治状況の中で彼らにとって神に仕えるとはどういうことかということが主観的に判断されているがゆえに常に一貫して正しく神に仕えるということができない。しかし神が求められることはあらゆる状況において、変わることのない神の律法と神のことばに従うことであった。私たちも刻々と変わりゆく状況を考慮したり、特定の人々について忖度したりするのではなく、常に変わらない神のことばに従って主に忠実に歩もう。

2018/4/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8: 12-20 賛美 新聖歌 201
 イエスは「わたしは世の光である」と語られる。ヨハネは1章において「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハ 1:1-9)と述べている。まことに、主イエスは真の光であられ、命であられる。このお方を離れては、命はない。

2018/4/26(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:7-11 賛美 新聖歌195
 エレミヤの預言を聞いた人々の反応が記されている。預言を聞いた時に考えられる、預言を受け入れて悔い改めるか、預言を拒んで不従順であり続けるかという反応にはとどまらなかった。エレミヤの言葉を聞いた祭司と預言者たちとすべての民が彼を捕えて主の名によってこのような預言をしたエレミヤを裁判にかけた。かつてエレミヤに厳しく批判された祭司と預言者達は死刑を求刑している。エレミヤがこの都に敵対する預言をしたからだという。感情的になっている人々の共感を得やすい理由であろう。しかし冷静に考えると、おかしな理由である。エレミヤが偽預言をしたから、あるいは神のことばを正しく取り次がなかったからというのであれば、預言者に対する罰を求めるには正当であろう。しかしここでは聞く人々の都合に合わないことを語る「預言者エレミヤ」を死刑にしようとしている。これこそが神のことばを軽視し、拒む人々の罪である。自我がむき出しになった姿である。
 神のことばに向き合う時、聞く者の心に心地よく響かないことがある。それは神のことばが人々を教え、戒め、正しくし、義に導く(2テモテ3:16)からである。しばしば人の感情に逆らうことが語られる。その時に語る人を排除するのはへりくだった応答であろうか?

2018/4/27(金) 担当 高谷清師  詩 37:16-17 賛美 新聖歌 282
 16節についてカルヴァンは「ダビデがここで語っているのは、外的な富というよりはむしろ、正しい者たちを真実に富める者とする、神の密かな祝福についてである、とわれわれは結論する。というのは,たとえ彼らはその日暮しを強いられるとしても、しかもあたかもマナをもってするごとく、その養いを天から受けているからである。しかるに、悪しき者は常に飢えており、あるいは財宝の中に埋もれつつも、朽ち果てる。」・・・「神のみ手によって支えられるのでないかぎり、この世には何の確かさも存しない」・・・もしわれわれが信仰によって、神がわれわれを、その父らしきみふところに抱かれることを、確信しないならば、われわれの貧しさは、常にわれわれにとって悩みであることになろう。・・・信仰者は神の祝福に寄りすがることを学んだのちには、彼らはその卑小で低俗な立場に留まることを喜び、これに満足することなく悪しき者らが誇りとする大いなる宝を、まるで足の下に踏みつけるように、大胆にも軽侮することであろう。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P463―464新教出版社1970)と述べている。パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(?コリ15:50)と述べている。世の価値観ではなく、御国の価値観に生きよう。

2018/4/28(土)担当 高谷由紀子師 マタ 19:23-26 賛美 新聖歌 397
 イエス様は弟子たちに「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われました。主はかつて「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタ 6:21)と教えられました。また、パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(?コリ15:50)と述べています。金持ちはその富に心を捕われがちです。しかし、地上の富は神の国を受け継ぐことはできないのです。富が与えられるなら感謝して受けましょう。しかし、与えられた富に捕われないで、常に神に目を注ぎ、御心の内を歩みましょう。”,,605″