2018/10/29-11/3
- 2018.10.29
- ディボーションの友
2018/10/29 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:17 賛美 新聖歌 211
イエスは「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」と語られる。イザヤ書において神は「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザ 53:12)と語っておられる。またパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリ 2:6-9)と述べている。御子は父なる神の愛に応えて、愛によって父なる神の御心を行い、それ故に父なる神は御子を愛される。その愛は御子によって信じる者に及ぶ。
2018/10/30(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:7-17 賛美 新聖歌165
残されたユダの人々がエレミヤのもとに来て今後歩むべき道を神に聞いてほしいと願ったとき、エレミヤは主に祈ることを受け入れた。状況は切迫している。彼らはエルサレム陥落後にバビロンがこの地に送った総督ゲダルヤを殺したため、報復を受けることを恐れていたのである。この人々は一刻も早く安全な地に逃れたい思いでいっぱいだった。もちろんエレミヤ自身もこの緊迫した状況を理解していた。誰もが一刻も早く神の御心を聞きたかったのである。しかし主のことばはすぐにはエレミヤに臨まなかった。エレミヤはこの状況で十日間祈らなければならなかった。
この十日間は「たった十日間だけ」と受け取られるだろうか?命の危険が迫る中、十日もただ待つということは気の遠くなる話であった。しかしエレミヤは神の言葉を自作しなかった。待つべき時は待たなければならない。たとえ状況が切迫していたとしても。私たちも信仰生活において「待つ」ことを学びたい。
2018/10/31(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:18 賛美 新聖歌 112
イエスは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルは「主はこのことばによって、御自分の死が全くの自発的な死であることを教えられた。地上の羊飼いは自分の群のために死ぬであろうが、それは自分の意に反してである。しかし信じる者たちの偉大な羊飼いは、自らの意志によって御自分のいのちを罪のためのささげものとする。キリストはなにか大きな力によってそうするように強いられたり、義務づけられたりしていたわけではない。キリストが進んで捨てるのでなければ、誰ひとりとしてそのいのちを奪うことはできないのである。キリストは、御自身を私たちの罪のための贖いとしてささげることを誓約されたので、「自ら」いのちを捨てられた。キリストは、罪人たちを愛するがゆえに死なれたのであって、ユダヤ人やポンテオ・ピラトの兵卒などの力に屈したのではなかった。(ライル福音書講解ヨハネ2P497聖書図書刊行会1987)」と述べている。イエスはただ愛の故に命を捨ててくださったのである。
2018/11/1(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:7-17 賛美 新聖歌341
十日間待って与えられた神の答えは明白であった。神は下した災いを悔いている、すなわちもはや神の怒りは過ぎ去り、憐れみが正義の要求に勝っていると言われる。そうして民を「立て、倒しはしない。植えて、抜きはしない」(42:10)と言われる。1:10で言われていた通り、裁きと破壊のときは終わり、再建のときが来たと言われる。そしてここにもやはり条件が伴う。もし民がこの国にとどまるならば、というのである。それに反してエジプトに行くなら救われないという。その選択肢を示しつつ、バビロンの王を恐れるなと語られる。神はこの新たな導きを示しつつ、民が恐れの故に従うことができないという危険性を良く知っておられた。
恐れはしばしば信仰の妨げとなる。しばしば私たちも体験することである。神に頼ることによって心の中にある恐れを乗り越え、主と共に歩むところに救いと守りが与えられる。聖霊の力によって神に頼りつつ歩もう。
2018/11/2(金) 担当 高谷清師 詩 39:11-12 新聖歌 32
詩人は、自らに降りかかった艱難が自らの罪咎によるものであり、それが神から出たものであることを知った時「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」と語った。そして「わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。」と祈る。更に「あなたに罪を責められ、懲らしめられて/人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい。」と語る。この箇所についてカルヴァンは「神のみ手がわれわれを圧倒しいわば地に打ち倒すまでは、われわれはみずからの空虚さを知ることによって、己れのうちにあるすべての思い上がりを捨て、身を低くしようとしないからである。すべての人間が愚かにもみずからを喜ばせ、いな、みずからに拍手かっさいを送るのは、神が彼らを猶予される間だけ、彼らが進んで目を堅く閉じ、自分の弱さを見ようとしなしないからでないならば、いったい何ゆえであろうか。それだから、彼らに生得的な倣慢から、彼らを浄化する唯一の救治策は、彼らが神の怒りを感じて恐ろしくなり、自分自身を不快に思うだけでなく、全く身を低くすることにある。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P29ページ新教出版社1971)と述べている。人は、自ら企画した事柄の成果を字画自賛し、神の目からの評価を求めようとしない。しかしパウロは「人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(?テサ5:3)と述べている。神のみ前に謙虚に立ち聖霊の光の中で自らを吟味し、神の御心を歩もう。
2018/11/3(土)担当 高谷由紀子師 ロマ 1:16-17 賛美 新聖歌 282
パウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」と言っています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創 15:6)と記されているとおり、アブラハムが義とされたのは彼の行いによってではなく、信仰によってでした。ダビデは行いによらずに神から義と認められた者の幸いについて「いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(詩 32:2)と詠っています。自らは罪ある者である私たちも、自らの行いによらず、私たちの罪のために十字架に架かって下さった主を信じる信仰によって義とされている幸いを心から感謝しましょう。”,,547″
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