2019/11/7-12
- 2019.11.07
- ディボーションの友
2016/11/7(月) 担当 高谷清師 ?ペテ5:12-13 賛美 聖歌 253
ぺトロは「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。」と記している。異邦人への使徒として立てられたパウロ、ユダヤ人伝道の使徒として立てられたぺトロは、初代教会の中心であり、柱であり、偉大な働き人であった。しかしその偉大な働き人の周囲には彼を支える人々、共に選ばれてバビロンにいる人々(口語訳はあなたがたと共に選ばれてバビロンにある教会・新改訳はあなたがたとともに選ばれた婦人と訳している。)・シルワノ・わたしの子マルコ等がいたのである。高くそびえる偉大な働き人は、聖霊及び信仰に満ちた人々によって支えられていたのである。新改訳が「選ばれた婦人」と記す人物はぺトロの妻であったとか、「わたしの子マルコ」と記された人物はパウロの第1次伝道旅行に随行しながら、途中で帰ってしまったマルコだ、とかいろいろ言われているが、ここでは詮索しないことにしょう。いずれにしても、主に召されて任に就いている働き人は聖霊の支えと共に、教会の、そして多くの兄弟姉妹に支えによってその働きを全うすることが出来るのである。教会の、聖徒の交わりを大切にしょう。立てられている働き人のために常に祈ろう。
2016/11/8(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書52:13-53:12 賛美 新聖歌399
旧約聖書の中でも良く知られている箇所である。しかし深く味わって読むならば、衝撃的なことが書かれている。「苦難の僕」と呼ばれる人は、王から民まですべての人がその苦しみを受ける姿を見て言葉を失うほど悲惨で痛ましい罰を受けている。若く、美しい容姿を持っていたであろう僕は、それらすべてが損なわれるほどに痛めつけられている。悪人が罰を受けて苦しみ、義人が栄えるのであれば受け入れられる。しかし僕は「不法を働かず、その口に偽りのない(9節)」人であった。この僕が神に従順に従い、これまで神に背き続けた末に裁きを受けたイスラエルに変わって苦しみを受け、葬られた。神はこの僕の従順を受け入れて彼を高く上げ、栄えさせられた(52:13)。
苦難の僕は神に強制されたのではなく、主の望まれることを知り(53:10)、自ら喜んで従った。神は神の民の従順を通して働かれる。
2016/11/9 (水) 担当 高谷清師 ?ペテ5:10 賛美 新聖歌 247
ぺトロは最後に「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。」と記す。イスラエルの人々は「シャローム」とあいさつを交わすと言う。神の選民とはいえ、エジプトとメソポタミヤという二大文明圏に挟まれ、絶えず蹂躙されてきたイスラエルの民の切実な願いのこもった挨拶である。主イエスの十字架の後、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語られた主イエス、そして迫害の嵐の中で信仰の歩みを続ける弟子たちのために「キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。」と祈るぺトロ、それは私たちのすべての罪を負い、十字架に架かり血を流し、すべての人の贖いを成し遂げ、死に勝利してよみがえられた主イエスの恵みの御業によるのである。主は「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ 16:33)と語られた。主に結ばれている時にのみ、真の平和は得られるのである。
2016/11/10(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書52:13-53:12 賛美 新聖歌112
イザヤ書は「苦難の僕」が誰なのか、はっきり記していない。しかしキリスト教ではイエスの地上での歩みとその十字架の死と復活を見たとき、それがイザヤ書に示された神の救いの計画の成就であると理解した。?ペトロ2:22-25に記されているように、キリストは罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかったにもかかわらず、『十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされ。』たのです。ここではイザヤ書52:13-53-12の言葉を用いてキリストの死と復活が語られている。イザヤ書が書かれてから400年以上の時を経て、神は私たちを罪から救うためにキリストをこの地に送ってくださった。それはユダヤ人が待ち望んだように、武力をもって民を解放するものではなかった。キリストは神への従順によって私たちを罪から救ってくださった。
今一度私たちは、はるか昔からの神のご計画と、キリストの従順を通して救われたことを覚え感謝しよう。
2016/11/11(金) 担当 高谷清師 詩編27: 11-12 賛美 聖歌233
ダビデは「主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。」と祈る。それは「わたしを陥れようとする者がいる」からである。それはダビデに逆らって立った「偽りの証人、不法を言い広める者」である。ダビデの生涯を見るとき、敵は彼を無き者とする為にあらゆる方策を用いたのであった。それらの不法から逃れるのは神により頼むこと以外には道はないのである。神の敵対者たちは主イエスを無き者にするために言葉尻をとらえようとし、裏切り者を用い、偽証人を立てた。今、神に敵対する世は神の民を陥れるために同じことを行っている。これらから守られる為には神により頼む以外にないのである。神がご自身の民を悪しき者から救い出される方法についてカルヴァンは「神がその民を救い出される道はふたつある。一方では悪しき者たちの残虐を止めしめ、彼らの[心を]柔らかにされるが、他方彼らをその激怒と狂乱のうちに放置されるときには、彼らの手を抑えて、彼らのなす努力、あるいは心に抱く悪しき意欲を無に帰せしめられる。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P333新教出版社)」と述べている。悪しき者から救われる道は主により頼む以外に無い。
2016/11/12(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 新聖歌394
イエスが十字架に架かられたときイエスと一緒に二人の犯罪人が十字架につけられていました。そのうちの一人は自分の罪を悔い改めることをせず、議員たちと同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と罵っていました。これに対してもう一人の犯罪人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」とたしなめ、更に「しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言い、イエスに向って「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。それに対して主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。このことは、私たちが救われ、御国に受け入れられるために求められるのは信仰だけであることが分かります。パウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ロマ 1:17)と述べています。救いは信仰によってのみ、得られるのです。”,,963″
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