2020/12/21-26

 2020/12/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 21:15-17  賛美 聖歌 263

 一同が食事を終えた時イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えた。するとイエスは再び「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と問われ、ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えた。するとイエスは三度「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と問われた。ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなって言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えている。この、三度にわたるぺトロへの問いについては、種々の解釈がなされてきた。それら諸々の解釈はさておき、イエスとぺトロとの会話の進展の中でぺトロの内において「イエスを愛する愛」についての吟味が進んだのではないだろうか。イエスは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。」(マタ5: 46)と教えられた。世的利益のためにイエスを愛するのではなく、真実をもって愛するものとなろう。

 

2020/12/22(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書6:1-5  賛美 新聖歌267

 被造物全体を証人として裁判が行われる。3節での神の問いかけを聞くと、イスラエルの民が神に疲れたと主張しているようである。イスラエルの人々は律法を守るという要求や、様々な祭儀や細かな犠牲のことで疲れ果てていたのだろうか。彼らに対して神が言われるのは昔からの神の御業を思い起こせということであった。出エジプトの救いの御業と荒野での導き、途上で出会った敵の国々と王に対する神の御業を思い起こして自分たちがいかに神の恵みと愛を受けてきたかを考え直せと言われる。

 神との関係に生きる信仰者である以上、皆神に仕え、神のみ言葉に従う。この服従の基本に感謝と神への信頼があるならば、その行為は喜びの奉仕となる。しかし神の慈しみを忘れ去った状態で神からの律法の要求を満たすためだけの信仰生活の苦役として奉仕をするならば、それは重荷となり、疲れる。私たちの信仰生活がこのような状態に陥らないよう、神の愛の業をいつも思い起こそう。

 

2020/12/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 21:15-17 賛美 新聖歌 392

 イエスはぺトロの答えの後に「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」と命じておられる。パウロは「同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。」(テト 2:6-7)と述べている。またぺトロは「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(?ペテ5:3)と述べている。主の群れへの奉仕に携わる者は権威を振り回すのではなく、愛をもって仕えることが求められるのである。

 

2020/12/24(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書6:6-8  賛美 新聖歌361

 神の言葉を聞いた人々は自分たちの信仰生活の根本を見失い、礼拝の基本である神への感謝を忘れていたことに気が付いたのだろう。再び前向きに神へのあるべき献げものについて考え始めている。何とかして神に栄光をお返ししようとしているようである。彼らは祭儀の伝統から神の前に出るときにふさわしい犠牲をもって近づくべきことを知っていた。悔い改めや様々な犠牲のことを思いながら、今献げるべき供え物について考えていくときに、今度は反対の方向にエスカレートしていく。その結果、主が求められたことがなく、逆に禁止されていた長子をささげることまで考え始めている。

 人の頭で考えることは否定的な動機であれ、肯定的な動機であれ、極端な行為に陥りやすい。ましてや神の御心を聞くことを忘れて自分で考えるならば真の神へのふさわしい礼拝からかけ離れた、偶像礼拝において要求されるような行為を行ってしまう。神の御心を知り、神に喜ばれる礼拝を学ぶためには聖書に聞くことが必要である。神を愛する熱心と、神の言葉に冷静に耳を傾ける思慮を併せ持ちつつ、主に仕えよう。

 

2020/11/25(金) 担当 高谷清師 詩 58:2-3  賛美 新聖歌 38

 詩人は「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し/立ち向かう者からはるかに高く置いてください」と祈っている。表題は「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」と記されている。「敵」について表題からはサウルである。

鍋谷尭爾師は「詩篇において「敵」はどのように用いられているでしょうか。その用法は集合的または王の詩篇と、個人的詩篇とに大きく分けることができます。(中略)個人的な用法の特徴は、「敵」が具体的に何を指しているか明確に定義できないことです。(中略)。詩篇五九篇の「敵」がサウルでないとすれば、「立ち向かう者」(2)、「悪を行う者」「流血の罪を犯す者」(3)、「力ある者」(4)、「悪を行う者、欺く者」(6)と言われていますが、明確にだれであるのかわかりません。6節と9節では「国々」と言われています。」(『詩篇を味わう?』Pいのちのことば社 2006)イエスは「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(マコ 13:6)、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マコ 13:12-13)と教えておられる。再臨の迫った終末の時代を生きる私たちは聖霊に従い、霊を見分けつつ歩もう。

 

2020/12/26(土) 担当 高谷清師 ヨハ 21:18-19 賛美 新聖歌 399

 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えたペトロに対してイエスは「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられた。そして「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と語られた。ジョン・C・ライルは「これらのことばが使徒の死の様を予告したものであったことは、議論する余地がない。この予告は俗に伝えられているように、ベテロがキリストのゆえに十字架につけられた時に成就したのであった。弟子の死の時、場所、状態、肉体への痛みは、みな主によって予見されていた事柄なのであった。(ライル福音書講解ヨハネ4聖書図書刊行会1988)P508」と述べている。イエスの言葉についてヨハネは「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」と述べている。現今の教界においては、病が癒された、経済的満たしを受けた・・・・・等々、世的欲望を満たされたことが祝福を受けた証と考えられる傾向がある。しかし、ぺトロは神のご計画に従って死ぬことによって神の栄光が現わされたのである。み旨に従い、神の栄光が現されることこそ、最高の祝福である。