≪デボーションの友≫2022/5/23-28

2022/5/23(月) 担当 高谷清師 ガラ 2:1-5 聖歌(総)151  聖歌 196

 パウロは「その後十四年たってから、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。」と記している。この間の事情を使徒言行録は「ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。そして、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい対立と論争が生じたので、この件について、使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムに上ることになった。」(使15:1-2)と記している。アンティオキアを拠点として展開されていた異邦人伝道の所にエルサレムを拠点に伝道活動をしていた人々がやって来て、両者の間に救いに関して激しい対立と論争が生じたので、エルサレム教会の主だった人たちと協議するためにパウロ達はエルサレムにやって来たのである。パウロ達の宣べ伝えていた福音は啓示によるもの――神から直接与えられたものであった。パウロが「なぜならこの私は、その福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、実にイエス・キリストの啓示を通して受けたからです。」(ガラ1:16)と述べているとおりである。福音は人間の思索の結果でもなく、人間の創作でのない。神ご自身の御業である。それ故、人はそのまま受け入れるべきである。

2022/5/24(火) 担当 ラウジー満世師 創世記4:1-7  賛美 聖歌総合版489 聖歌472

 アダムとエバに続いてここでは兄弟であるカインとアベルの間の出来事が記されている。兄弟は人間に与えられた労働をして生活しているが、一方は家畜を飼い他方は畑を耕していた。二人はそれぞれ労働で得た実りの中から供え物として神にささげた。両者が同じように最上の供え物をささげ、同じように神を礼拝した。しかし神の両者の捧げものについての対応は正反対であった。アベルのものだけを受け入れられた。カインは驚き、落胆し、困惑したであろう。自分に落ち度があるならばまだしも、弟のアベルの供え物と礼拝の方法を比較しても違いはなかった。しかし神はなぜか長子ではなく弟の礼拝だけを受け入れられた。不条理である。

 人はこの正反対の結果について合理的な説明を探そうとする。しかしよくよく考えてもその答えは見つからない。人が知り得るのは、神が両者に対して取られた応えは正反対であったという事実だけである。人はしばしば自分に落ち度がないのになぜ神は、、、、ということを経験する。その時に私たちは神が神であるがゆえにそれを受け入れることを求められる。それを受け入れるためには、神へのゆるぎない信頼が必要である。

2022/5/25(水) 担当 高谷清師 ガラ 2:1-5 聖歌(総)152  聖歌 197

 パウロは「忍び込んで来た偽兄弟たちがいたのに、強いられなかったのです。彼らは、私たちがキリスト・イエスにあって持っている自由を狙い、私たちを奴隷にしようとして忍び込んで来たのです。」と述べている。「私たちがキリスト・イエスにあって持っている自由」とはキリスト・イエス以外の何者にも服従しない自由であり、それは福音の真理に基づくものである。

 明治十年代の当時、どこの女学校も、きびしい校則で生徒を縛りつけていた中に在って桜井女学校副校長となった矢嶋揖子は校則らしい校則を、すべて取り払い、生徒たちに「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と言った。この校則撤廃はみごとに功を奏し、生徒たちの自立自治の精神を大いに伸ばしたのであった。校則廃止による事故や問題は皆無といってよかった。と三浦綾子は記している。(三浦綾子著「われ弱ければ 矢嶋揖子伝)。

 多くの教会では聖書は誤り無き神の言葉であって信仰と生活の唯一の規範である」と語る。まさにそのとおりである。神の言葉に、キリスト・イエスのみに従って歩もう。

2022/5/26(木)担当 ラウジー満世師 創世記4:1-7  賛美 聖歌総合版588 聖歌710

 アベルと比較して心穏やかではなかったカインに対して神は語り掛けられる。なぜ怒るのかと問う神は少し理不尽であるように感じられる。しかし神は目の前で起こっていることに関わらずカイン自身が正しいことをしているなら顔を上げられるだろう、神に対して怒る必要もないし、兄弟に対して怒り、妬む必要もないと言われる。この中でカインを圧倒しようとしている罪を治めなければならないと、なかなか厳しい要求をなさる。

 神の前に人が責任をもって生きることは簡単なことではない。それでも神はすでにエデンの園から追放された存在である人間に対してもかつてアダムとエバになさったように直接語り掛け、罪から離れて生きられるようにと交わりを求めてくださる。神はいつも私たちに目を留めて、必要な時に声をかけ、交わりに生きる中で神の助けによって罪を治めるようにと勧めておられる。これは人の力によって成し遂げるものではなく、神の力である聖霊の導きによって支えられて行うものである。

2022/5/27(金) 担当 高谷清師 詩 68:10-11 賛美 聖歌総合版 聖歌

 詩人は「神よ、あなたは豊かに雨を降らせ/衰え果てたご自分の民を回復させ/あなたの群れはその地に住む。」と詠う。約束の地の先住民を恐れ、神の言葉に従うことを拒んだ民に対して神は「私は生きている。主の栄光は全地に満ちている。私の栄光と、私がエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度も私を試み、私の声に聞き従わなかった者は誰一人として、私が彼らの先祖に誓った地を見ることはない。私を侮る者は誰一人としてそれを見ることはない。」(民14:21-23)と語られた。この反逆の世代が死に絶えた後、神はご自分の民を約束の地、乳と密の流れる地に導きいれられた。詩人は詠う「神よ、あなたは恵み深く/苦しむ人のために備えてくださる。」と。「苦しむ人」とは身分の低い信仰者のことである。彼らは自分の弱さを知り、神の憐れみによる以外に無いことを知っている。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈った。一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください。」と。これを見ておられたイエスは「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:9-14参照)と教えられた。

2022/5/28(土) 担当 高谷清師 マタ 6:10 賛美 聖歌総合版 聖歌 主が弟子たちに教えられた祈りの第三は「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りであった。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハ 3:16-17)と述べている。神の御心は全ての人が救われることである。そのために神はご自身の一人子を世に遣わし、私たちの罪を贖うために十字架に架からせてくださった。それによって私たちの全ての罪の贖いは達成された。ヨハネが「しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハ1:7)と述べているとおりである。御子イエスの血の贖いは完ぺきであって、御子イエスの血の清め得ない罪は一つもないのである。