≪デボーションの友≫2024/1/29-2/3
- 2025.02.23
- ディボーションの友
2024/1/29(月) 担当 高谷清師 ルカ6:17-19 賛美 賛美 聖歌(総)321 聖歌 334
ルカは「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」と記している。前段落においてルカは「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。」(ルカ 6:12-13)と記した。「山」それは人々の来ない寂しい所である。イエスは多忙な宣教活動の中に在ってもしばしば「山」「寂しい所」に退いて祈りの時、神との交わりの時を持たれた。「山」において祈りの時を持たれたイエスは、朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。使徒の選定と任命を為されたイエスは彼らと共に山から下りて、平らな所にお立ちになった。飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群集を憐れみ、彼らに福音を伝えるため、命を得させるためであった。復活し、昇天を前にして主は「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マル 16:15-16)と命じられた。
私たちが福音を伝えるのは自らの名声の為でもなく利得のためでもない。魂の救いと神の栄光の為である。
2024/1/30(火)担当 ラウジー満世師 出エジプト記2:15-22 賛美 聖歌総合版516聖歌498
成人したモーセは同胞から拒まれ、王からも命を狙われて、荒れ野へ逃げてミディアン地方にたどり着いた。そして井戸で困っている7人の女性たちを助けた。彼女たちの父親で、ミディアンの祭司レウエルはモーセを食事に招いた。これまでヘブライ人でありながらエジプトの宮廷で育ったモーセを心から受け入れる民はなく、居場所も見つけられず、ここまでたどり着いたモーセの親切を喜んで受け入れたのは、このミディアン人家族であった。モーセはここに留まる決意を固めてツィポラと結婚した。
モーセには他に選択肢もなかった。身につけた宮廷の知識や作法は役に立たないように見えただろう。寄留者生活に何が見いだせるのか分からない。しかし手探りの生涯にも神は共に居て下さることが後に分かる。人の目には見通せない将来の必要を、神はご存じであり備えて下さる。いつでも与えられた場所で最善を尽くせるよう、主に求めよう。
2024/1/31(水) 担当 高谷清師 ルカ6:17-19 賛美 聖歌(総)518 聖歌 500
「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。」と記されている。「平らな所」、民衆の生活の場に立たれたイエスのもとには大勢の弟子とおびただしい民衆が、集まってきた。彼らの目的の第一はイエスの教えを聞くためであった。山崎英穂師は
「教会のドグマや思想ではなく、原点に帰って、イエスから聞く、イエスのほか語りえないいのちのメッセージ(6:20-49〉を聞こうとしてくる。人々はイエスのことばに飢えている。(説教者のための聖書講解No52P80-81日本基督教団出版局1985)
と述べておられる。アモスは「見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り/北から東へとよろめき歩いて/主の言葉を探し求めるが/見いだすことはできない。」(アモ8:11-12)と預言している。人を生かすのは教会のドグマや思想ではない。神の口から出る一つ一つの言葉(マタ 4:4)である。日々、生ける神の言葉に聞こう。
2024/2/1(木)担当 ラウジー満世師 出エジプト記2:23-25 賛美 聖歌(総) 521聖歌503
モーセがミディアンの地に寄留していた間にエジプトでも変化があった。王が死んで一時代が終わった。しかしイスラエルの人々の生活は相変わらずの苦役のもとで苦しみが続いていた。新しい王になっても政策が劇的に変化したわけではなかったが、人の目には見えない変化は確実に起こっていた。神が民の叫びを聞き、父祖たちとの契約を思い起こし、人々を顧み、御心に留めて下さった。この短い数節の中で神が民に対して積極的に関心を持っておられる。人々にとっては同じ苦しみが続き、痛みを吐露する毎日であったが、神が耳を傾け、彼らに助けの御手を伸べようとされる時、何かが変わり始める希望が出て来る。
長い間苦難が続くと、事態を好転させるための努力すらできなくなる。助けを訴える気力もなくなる。神に積極的に助けを求めて祈ることすら難しくなる。しかし神がその声に耳を傾けて下さることに確かに希望がある。神に目を向け、叫び続けよう。
202/2/2(金) 担当 高谷清師 ルカ6:17-19 賛美 聖歌(総)538 聖歌 520
イエスのもとには大勢の弟子とおびただしい民衆が、集まってきた。彼らの目的に第二は病気をいやしていただくためであった。山崎英穂師は
「私たちの人生は病気と深い関係がある。今日の日本人の八人に一人は病気である。むしろ多くの人は半健康人であるという。そして「人間の死の原因のうち、最も多いのは病気である。戦争で死んだ者は、古来より多いが、それでも直接戦争で死ぬより、病気で死ぬ方が多かった」〈藤浪鑑『人生と疾病』)という。とくにイエスの時代、病気にかかるとたいへんで、身代がとぶといわれた。(説教者のための聖書講解No52P81日本基督教団出版局1985)
と述べておられる。今日においても病気は人生を支配する大問題である。聖書によるとイエスは多くの病気を癒された。更にルカは「汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。」と書き加えている。9章にはイエスが悪霊に取りつかれた子をいやされたことを記している。イエスは罪と悪霊に対する勝利者である。それは信じる者の上に顕される。
2024/2/3(土) 担当 高谷清師 ルカ6:17-19 賛美 聖歌(総)662 聖歌 617
ルカは「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」と記している。病気の癒しはイエスから出る力であった。ルカは8章でイエスの服に触れる女について記している。十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」言われた。イエスに触れる―今日私たちは信仰によってイエスに触れるのである。
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