2012/4/30-5/5

 

2012/04/30(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 4:14-16 賛美 P&53
 この箇所から著者はキリストの大祭司職について述べる。キリストの大祭司職についての第一段落は「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と言う祈りの勧めである。わたしたちが恵みの座に近づくことができるのは「もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」からである。キリストは初めから父なる神と共に居られ、神の御計画によって人となり、地上をわたしたちと共に歩んでくださり、ご自身をわたしたちの罪の贖いの供え物として献げ、死んで葬られ、黄泉に下り、死人の内よりよみがえり、天に昇り、神の右に座し、今も私たちのためにとりなしていてくださるお方である。地上において多くの大祭司が立てられたが、天に昇った者はキリストの他にはいない。キリストは偉大な大祭司である。それ故、わたしたちはキリストに在って大胆に恵みの座に近づくことができるのである。
 
2012/5/1(火)担当 高谷満世師 サムエル記上18:1-16 賛美 聖歌477
 「主はダビデとともにおられた」。この箇所でこのように何度か語られている。主がダビデとともにおられたので、ダビデはどの戦いにおいても勝利を収めた。そしてダビデの活躍を見た人々は皆ダビデを愛した。戦いから帰還したダビデを人々は熱狂的に出迎え、サウルの息子ヨナタンもがダビデを愛した。それはまさに神がダビデを選んでおられたという証であった。対照的に、神に捨てられたサウルはダビデの活躍と、人々がダビデを愛し賞賛することが恐ろしく感じられ、その思いがダビデへの敵意となった。
 この二人の姿を見るとき、それはサウルとダビデが元来持っていた能力の問題ではなく、二人の背後におられる神の召しの問題であることが分かる。神に選ばれた者が忠実に神に仕える時、祝福され、主の働きのために用いられる。私たちは神に選ばれた者として、神に応答し、忠実に歩んでいるだろうか。今日も主のみこころをなすよう、主に従おう。

 

012/05/2 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16 賛美 主をほめよ86
 大祭司の務めは神と人の間に立って仲立ちをすることである。祭司は人間の側に立ってその求め、必要、祈り、ささげ物を携えて神の御前に出る。また神の側に立って神のメッセージを伝え、御心を告知する。従って完全な大祭司であるためには神であり、人であることが求められる。著者はここでキリストを「神の子イエス」と呼ぶ。このお方は神の御子であられたが、肉体をとって人となられたお方であり、従って真の神であり、真の人であられる。このおお方だけが真の大祭司となることのできるお方である。パウロは「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです(?テモ2:5)」と語っている。ペトロもまた「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです(使 4:12)」と語っている。わたしたちが神に近づき救われることのできるのはこのお方による以外には無い。

 

2012/05/3(木)担当 高谷満世師 サムエル記上18:17-30 賛美 聖歌487
 ダビデはサウルの娘ミカルを妻としてサウルの婿となった。ここに至るまでにはさまざまな出来事があった。主がともにおられるダビデの勝利と人々から愛される姿を見たサウルは恐れていた。サウルは主がすでに自分を捨てられたことを知り、霊においてダビデの勝利と名声は主の御業であることを知っていた。しかしそのことをサウル自身が受け入れることはできなかった。神がすでに自分を捨て去られたと知っていながら、なおその地位にとどまることを求めた。自ら神に背いたために神に捨てられたと知っていながら、サウルは悔い改めることをせず、むしろ神に与えられたものを自分の力で守ろうとした。
 神に選ばれたことは私たちの服従なくして生涯自動的について回るものではない。神に選ばれた者には神に従う責任もまた与えられている。私たちは自分の手で祝福を保とうとするのではなく、常に神に忠実に歩むことをまず求めていきたい。自らの弱さのゆえに神にそむいてしまった時には悔い改めて神の赦しを求めよう。主とともに歩み続けたい。

 

2011/05/4(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16   賛美 聖歌608
 著者はここで「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と勧める。十字架に架かり死なれたお方には、信仰なき人々の目にはただの犯罪人の刑死にしか映らなかった。先日「キリストは初めから父なる神と共に居られ、神の御計画によって人となり、地上をわたしたちと共に歩んでくださり、ご自身をわたしたちの罪の贖いの供え物として献げ、死んで葬られ、黄泉に下り、死人の内よりよみがえり、天に昇り、神の右に座し、今も私たちのためにとりなしていてくださるお方である」と書いた。これは神の啓示によってのみ知り得ることであり、聖霊の助けと導きによってのみわたしたちの内に信仰として宿るものである。世には私たちをこの信仰から引き離そうとする力が強く働いている。また、この信仰にとどまっているつもりでもそれが観念化してわたしたちの心と有機的関係を持たなくなってしまうことがある。この信仰が絶えず私たちの心と結び付き生きて働くためには、聖霊との不断の交わりが必要である。

 

2012/05/5(土)高谷由紀子師 ペトロの手紙?1:23-25   賛美 聖歌322
 この箇所には「迷い出た羊」の譬話が記されています。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」とイエスは言われました。100匹もの羊を持っているなら1匹ぐらいいなくなっても大したことはないと人は思います。この世においては物事の価値の有無や量の多少、力の強弱によって評価され決定づけられることが殆どです。イエス様は「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と言われました。また主は「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカ 15:7)」と語っておられます。滅びゆく魂を重荷とし、あきらめることなく愛と忍耐を持って福音を証しするよう励みましょう。