2012/9/10-15

 

2012/09/10(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙9:11-14    賛美 聖歌 420
 今や改革の時が到来している。既に実現している恵み、キリストは現れ、彼において影であった古い契約は、完全で永続的な実在に道を譲った。キリストは、徹底的な自己犠牲によって、神の御座の右に座を占め、新しい永遠の秩序の大祭司として、天のエルサレムから永久に治められる。キリストが仕える聖所は真の幕屋であり、モーセの幕屋はその地上的な写しにすぎなかった。主は「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせるヨハ 2:19)」と語られた。そしてヨハネは「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じたヨハ 2: 21-22)」と記している。またステファノは「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです使7:48)」と語りイザヤ66:1−2「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。これらはすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」を引用している。既に実現している恵みの時代、今の時代、主が顧みられるのは形式ではなく真実の悔い改めをもって主に近づく人である。
 

 

2012/09/11 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下7:18-29 賛美 聖歌487 
 ダビデはナタンを通して神の約束をはっきりと聞いた。それはダビデのために主が家を建ててくださるという驚くべき恵みの約束であった。この預言に対してダビデは応答している。
 この応答の祈りをダビデは過去に与えられた神の恵みを数えることからはじめている。ダビデ自身、自分が能力あふれる偉大な人物だからから神の恵みを受けているのではないことをよく理解している。神がこれほど大きな恵みを賜り、彼を導いておられるのはただただ神の御心の故である。さらに、これほど大きな恵みを注いでくださる方は唯一の神、比べられるもののないお方なのである。それほどのお方が取るに足りない小さな存在である人間に啓示を与え、祝福を賜る。
 ダビデに祝福を与えられた神は今も生きて働かれ、私たち、神を信じて忠実に歩む者をも省みてくださる。主の恵みを数えて感謝しよう。
 

 

2012/09/12 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:11-14 賛美 聖歌539
 古い契約のもとではアロン系大祭司は年に一度犠牲の動物の血を携えて至聖所に入り、贖いの業を行った。それは毎年繰り返し為されなければならなかった。それはその贖罪が象徴的なものであり、一時的であったからである。しかしキリストは完全なお方であり、永遠の方である故、キリストが成し遂げられた贖罪は完全であり、永遠に力をもつのである。それ故、人が救われるのはただ信仰によるのであって、救いのためには信仰以外の何ものも必要としないのである。これを反面から言うなら、多額の献金、多くの奉仕、道徳的に立派な行い、等によっては救われることはできないのである。今日も信仰によって歩もう。
 

 

2012/09/13(木)担当 高谷満世師 サムエル記下7:18-29 賛美 聖歌481
 神の祝福の約束を感謝をもって受け取る応答の祈りにおいて、ダビデはまず過去の祝福を数え上げた。それに基づいて、主が賜った御言葉のとおりに行ってくださいと述べ、その恵みを感謝しつつ受け取った。しかしそれはダビデの王としての名声が国内外にとどろくためではなかった。ダビデの祈りは「『万軍の主は、イスラエルの神』と唱えられる御名が、とこしえにあがめられますように。」(26節)というものであった。ダビデの思いは常に主の御名があがめられることを願うものであり、これほどの恵みを賜ったときにも慢心しなかった。そしてこの感謝の祈りさえ、主の言葉のゆえにささげる勇気を与えられたのである。
 自分が、自分だけが特別な祝福を受けていると、それは主の憐れみと慈しみによるものであるにもかかわらず、ついつい自分の功績によるとどこかで考えてしまうことがある。しかし神の恩寵は神の御心にしたがって与えられる。常に主の御名があがめられることを求めたい。
 

 

2011/09/14(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:11-14    賛美 聖歌447
 古い契約のもとにおける雄山羊と若い雄牛の血は儀式的なきよめを提供することができた。それは外面的にきよめを提供することはできたが、わたしたちの良心をきよめることはできなかったのである。しかし御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めるのである。なぜならそれは、永遠の“霊”によってなされたからである。バプテスマの日にイエスのうえに下られた聖霊は常に主と共に働かれた。また「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします(?コリ3:6)」と記されている。キリストの血がわたしたちの良心を死んだ業から清める故、生ける神を礼拝するようにさせて下さる。パウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます(エフェ 3:12)」と言っている。キリストの血潮を信じて大胆に神に近づこう。
 

 

2012/09/15(土)高谷由紀子師 マタイによる福音書18: 19-20 賛美 聖歌253
 わたしたちが信じている神様は全知全能の神様です。この偉大な神様が「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と言っておられるのです。そして「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と約束してくださっています。各々の立場で忙しい生活している私たちは、毎日一緒に集まって祈ることは難しいことですが、神様の約束を信じ家族で、兄弟姉妹で顔を合わせる時、心を合わせて祈りましょう。