2012/9/17-22

 

2012/09/17(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:15-22  賛美 聖歌447
 著者は「キリストは新しい契約の仲介者なのです」と述べる。そして「それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださった」からであると言って、仲介の基礎を明らかにする。つまり、その基礎は、主イエスの犠牲としての死なのである。主イエスの死により、神の律法に違反した人々に対する救済が備えられた。キリストのいのちは、人々を罪から解き放つため払われた尊い代価なのである。このことに関し主は「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である(マタ 26:28)」と語っておられ、パウロもまた「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです(ロマ 3:25)」と語っている。キリストの血こそわたしたちに罪の赦しを与え、救いをもたらす基礎である。
 

 

2012/09/18 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下8:1-18 賛美 聖歌478
 ダビデの戦いについての記録がまとめられている。ダビデは周辺諸国を次々と征服していく。当時、イスラエルを取り巻く国々がそれほど強大ではなかったとはいえ、すべての戦いにおいてダビデが勝利をおさめ、周辺諸国がダビデに隷属していく様は驚くに値する。この章には何度か「主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた。」(8:8, 14)と記されている。確かにこれらの戦いの背後には変わることがない主の助けがあった。
 主はご自身が選ばれたダビデに対して真実であられた。また、ダビデも主に選ばれたことについて高ぶることなく、常に主に聞き従った。この多くの戦いの結果を通して、私たちは主に選ばれたダビデの謙遜で忠実な姿を見ることができる。私たちも主の前に謙遜に、忠実に歩んでいきたい。
 

 

2012/09/19 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:15-22 賛美 聖歌593
 著者はさらに「召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」と述べる。「召された者たち」とは、信仰を与えられ、救いの恵みに与かっているわたしたちである。主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハ15: 16)」と語っておられる。わたしたちは自分の思索や探求・努力によってキリストを見出し、信じたのではない。キリスト信仰に導かれ救いに与かったのは神の憐れみと恵みによるのである。パウロもまた「あなたがたの救われたのは恵みによるのです(エペ 2: 5b)」と言う。恵み深い主に感謝しよう。
 

 

2012/09/20(木)担当 高谷満世師 サムエル記下9:1-12 賛美 聖歌493
 再びここでダビデはサウル家の者を扱っている。サウルの孫、ヨナタンの息子であるメフィボシェトが生き残っている。彼は足が不自由であり、ダビデに対して反乱を起こす危険がないことがメフィボシェトの消息とともにダビデに伝えられる。ダビデは彼の言葉のとおり(9:7)、ヨナタンとの友情のゆえにメフィボシェトを厚遇した。まさに忠実(=慈しみ9:7)を尽くしたのである。ダビデはサウルの家に対してあくまでも忠実であった。それと同時にメフィボシェトをエルサレムに置き、ともに食卓に連ならせることによって同時にサウルの家の者が反旗を翻すことがないように監視することもできた。
 ダビデはどこまでも神に忠実であった。同時に王として国を治めるために、知恵をもってそれらを行ったのである。主に仕えるときに、忠実に、かつ知恵を用いていくものでありたい。
 

 

2011/09/21(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:15-22    賛美 聖歌615
 キリストが死んでくださったのは「召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」と言うのである。ヨハネは「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた(ヨハ 1:12)」と言っている。そしてパウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです(ガラ 4:7)」と言い、更に「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです(ガラ 4:7)」と言っている。キリスト血によって罪赦され、救われた私たちは神の子とされ、神のすべての富の相続人とされているのである。それ故にパウロは「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです(?コリ 9: 27)」と言うのである。わたしたちはこのような大きな祝福が約束されているのだから、あらゆる誘惑と困難を克服して信仰を守り抜こう。
 

 

2012/09/22(土)高谷由紀子師 コリントの信徒への手紙?1:18−21 賛美 聖歌399
 神は私たちの罪を贖うために、罪のないご自身の独り子に私たちの罪を負わせ、十字架につけてくださった。これによって、このお方を救い主と信じる者の罪を赦し、救いに入れてくださった。それ故、十字架の言葉―キリストの十字架による救いのメッセージ―はそれを信じる人々―わたしたち救われる者―にとって、救いにあずからせる神の力です。
 人が罪を犯して以来、人類は知恵を尽くして救いの道を、神を探し求めてまいりました。多くの賢者が、学者が、この世の論客が救いの道を説いてまいりました。しかし彼らの知恵によっては救いに達することはできませんでした。十字架の言葉は彼ら―滅んでいく者―にとっては愚かなものでした。十字架はイエスの在世当時、最も残虐な刑罰の道具であったからです。しかしキリストの十字架こそ救いにあずからせる神の力です。そこに私たちの罪がつけられているからです。