2014/1/13(月) 担当 高谷清師 ?コリ4:1-5賛美 新聖歌372
パウロはここまで述べてきた事柄を踏まえて「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」と述べる。ここで言われる「仕える者」とは、「指示に従って働く者」である。また「管理者」とは、決まった仕事を行う代わりの者―代理人―である。従って「彼は、責任ある立場にあった。人の上に立ち、日々の用務を指揮した。しかし、彼自身は主人に従属しており、奴隷であることが多かった。そういうわけで、主人に対しては奴隷ではあるが、他の奴隷に対しては、彼自身、主人であるという関係が成り立った。」(ティンデル聖書注解コリント人への手紙1P82)」のである。そして彼らは「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」である。即ち、福音を委ねられた管理者である。主に立てられた管理者はこのことをわきまえるべきであって、委ねられた聖徒を福音を逸脱して恣意的に扱ってはならない。管理者は固く御言葉に立つとともに、聖徒もみ言葉に立ち、キリストの権威を振り回す偽管理者を見分ける者となろう。
2014/1/14 (火) 担当 ラウジー満世師 列王記下18:1-25 賛美 新聖歌345
18章から20章までユダの王、ヒゼキヤについて記されている。17章ではイスラエルの陥落とそのときの王ホシュアについて記されていた。ホシュアは神に喜ばれる歩みをしなかったのに対して、ヒゼキヤは主の目にかなう正しいことをことごとく行った(18:3)。彼の正しさはダビデにも勝るという評価を受けている。このヒゼキヤ王の生涯は常に順風満帆だったのだろうか。
非の打ち所のない、正しく、律法を守る王として高い評価をもってヒゼキヤが紹介された直後に記されているのは、北王国を滅ぼしたアッシリアからの軍事的圧力であった。アッシリアの王セナケリブはヒゼキヤから大量の貢を引き出した。しかしそれだけでは飽き足らず、さらに家臣を送ってユダに戦うことを迫った。「なぜこんなことが起こるのか?ヒゼキヤは神に認められた正しい人、神に従う人ではなかったか?」と疑問が起こる。
近年私たちは「神に従う人には常に祝福がある。だから従いましょう」という勧めを教会において頻繁に聞くようになった。いかにも信じるならば良いことだけが落ちてくるように聞こえるが、聖書はこの正しい王でも試練に遭ったことを伝えている。神と共に歩む道には苦難もある。神と共に歩む人に与えられる恵みは「試練に遭わないという保障」ではないのである。
2014/1/15 (水) 担当 高谷清師 ?コリ4:1-5賛美 新聖歌390
パウロは、神の秘められた計画をゆだねられた管理者に要求されることは「忠実であることです」という。主はマタイによる福音書に記されている物語の中で、忠実な僕と悪い僕について「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう(マタ 24:45-51)。」と語っておられる。忠実な管理者とはどのような人であろうか。パウロは「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています(?コリ2:17)」と述べている。神の言葉―聖書―を語る者すべてが忠実な管理者なのではない。神の言葉―聖書―を語る人に二種あることに注意しなければならない。第一は御言葉を開き、それを忠実に解き明かす人である。第二はみ言葉を用いて自分を語る人である。聖霊により頼み、聖霊によって忠実な管理者とそうでないものとを見分けよう。
2014/1/16 (木) 担当 ラウジー満世師 列王記下18:13-37 賛美 新聖歌291
正しい王、ヒゼキヤもアッシリアの圧力により苦しんだ。アッシリアはユダのすべての民に対して、大変効果的な脅しの言葉を並べ立てた。エジプトに頼っても無駄であることを指摘し、ユダ自身の神に頼っても助からない、ユダの軍事力は当てにならない、さらには主ご自身がユダを滅ぼすためにアッシリアを送ったとまで述べた。これをユダの民全体への挑戦とした。
神を信じる人の信仰が問われるのはこのような状況において追い詰められたときである。普段は「力ある神を信じて頼ります」と告白していてもアッシリアの戦力のような物理的、現実的な脅威を目の前にして「あなたの信じる神よりも私たちの力にすがりなさい」と挑戦されると、その誘惑に屈してしまいそうになる。しかし、ヒゼキヤのもとで偶像礼拝を取り除き、神に従っていたユダの民は黙して神に頼り続けた。ヒゼキヤもまた祈りをもって神の前に出た。日ごろの神との交わりとそれによって強められたゆるぎない信仰が私たちを試練から守る盾である。
2014/1/17(金) 担当 高谷清師 ?コリ4:1-5賛美 新聖歌165
コリントの人々は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合って人間的評価に重点を置いていた。これに対してパウロは「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」と述べる。管理者は聖徒に仕えるために神によって立てられた神のしもべである。神に忠実であることが大切なことであり、その評価、裁きは主がされることである。人の関心を得ようとして人に迎合したりへつらったりしてはならない。パウロは「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません(ガラ1:10)」と述べている。今は民主主義の世であるが、人の関心を得ようと、いたずらに迎合する管理者―肉には心地よいであろうが―に注意しょう。
2014/1/18(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ18:1-4賛美 新聖歌408
イエスが弟子たちのところに来て「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねた。そこでイエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と言われました。弟子たちは自分が偉い人になりたい、人に認められ、賞賛されて他の人よりも上になりたいと思っていました。人は誰でも表面では謙遜そうにしていても心の底には自分こそ偉いのであるという思いが潜んでいます。しかし聖書は「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(?ペテロ5:5)と記しています。私たちは日々神様の前にへりくだって信仰と従順をもって励みましょう。