2014/2/10-15

2014/2/10(月) 担当 高谷清師 ?コリ4:11−13 賛美 新聖歌374

 この箇所においてパウロは、主に忠実に仕える使徒たちの状況について「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます」と語る。パウロがこれまで述べてきたように、キリスト者と世との価値観は異なる。主イエスを試みた悪魔が述べたように、世の権力と繁栄とは悪魔に属する。キリスト者が世において権力と繁栄を求めるなら、福音を棄て、世と妥協するしかないであろう。コリント人たちは信心深く装いながら、神が愚かとされた世の知恵に迎合し、王となっていた。今日でも権力と繁栄を求める者たちは、自らキリスト者と自称しながらその実を棄て、弱い立場の者を貶め、強者・権力者にへつらってその目的を実現しょうとしている。しかし、世の権力と繁栄とは悪魔に属するものであり、世の知恵は神が愚かとされたものであることを確認しておこう。そして信心深く装いながら自らの栄光を追い求める者たちを見分けることのできるよう、聖霊による知恵を求めよう。
 
2014/2/11 (火) 担当 ラウジー満世師 列王記下20:12-21 賛美 新聖歌355
 ヒゼキヤの治世の最後の部分について記されている。これまでヒゼキヤの時代にはパレスチナの北で勢力を伸ばしてきたアッシリアの圧力が常に差し迫った問題であった。そのような状況でも、ヒゼキヤは常に神への信仰と祈りによって守られ大きな恵みを体験してきた。国が守られただけではなく自分自身の病をも癒され、15年の年月が彼の人生に加えられた。このような信仰者がもし私たちの近くにいたら、どれほど私たちはその歩みを見ることによって教えられ、励まされるだろう。そしてこの人が最後まで立派な信仰を貫き通すことを疑わない。ヒゼキヤについても私たちは同じことを期待する。しかしここでは彼が最後に神の御心に完全に沿うことができなかったことが記されている。過去に堅く信仰を守り神とともに歩んで来たという事実は、将来の祝福を神から取り付けるための保険ではない。最後まで神の御心を求め続け、主とともに歩み続けることが信仰者に求められる。
 今日の新たな一日もまた主とともに歩みを進めよう。
 

2014/2/12 (水) 担当 高谷清師 ?コリ4:11−13 賛美 新聖歌399

 パウロが「苦労して自分の手で稼いでいます」と述べていることについて注意したい。ティンデル聖書注解によると「ギリシャ人が、肉体労働を奴隷だけにふさわしいものと見なして軽蔑していたことを考えると、この事実はさらに重要になってくる(ティンデル聖書注解コリント人への手紙1P90)」と述べている。さらに「パウロの語っているのは、実際に過酷な仕事のことである。その用いている動詞は、くたくたになるくらいの労働のことを指す(ティンデル聖書注解コリント人への手紙1P90)」ということである。これについてパウロは「ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました(使 20:34-35)」と述べている。そして「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである(?コリ9:23)」と語っている。かつて私たちの国では自らの手で糧を得ながら福音に仕える人々を卑しめ、聖書的でないように言う人々があった。しかしそれが誤りであることをこの御言葉は示している。偏見を取り除こう。
 
2014/2/13 (木) 担当 ラウジー満世師 列王記下21:1-18 賛美 新聖歌389
 神を愛し、神に従った、神の御心にかなう王ヒゼキヤについで王となったのはマナセであった。彼は「諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。」(21:2)と記されている。あらゆる偶像礼拝を持ち込み、占いやまじない、子どもを犠牲としてささげることまで行った。まさに神が申命記において、これらの法を守るならイスラエルは祝福を受けると語られたその一つ一つを破っていった。王が犯す罪は瞬く間に国中に広がり、神はその罪のゆえにエルサレムとユダに災いをもたらすといわれた。イスラエルの選びのしるしでもあった嗣業は、いまや神の裁きの舞台となる。
 神との生きた関係にある人々に求められるものは何だろうか。それはマナセの時代にも今の時代にも変わらない。常に神の言葉に従い、正しく歩むことである。クリスチャンとして神の恵みを信じて求める特権を私たちは与えられている。それと同時に、「聖書」として与えられている神のことばに基づいて神の御心に適う正しい歩みを進めることが私たちの責任でもある。
 

2014/2/14(金) 担当 高谷清師 ?コリ4:11−13  賛美 新聖歌214

 続いてパウロは「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」と述べている。「わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」と述べているように、使徒たちはそのように扱われていた。パウロを総督に訴えたテルティロは「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります(使24:5)」と言っている。世は使徒たちを世の屑、すべてのものの滓、投げ捨てるべき者、抹殺されるべき者と扱った。それに対して使徒たちは祝福し、耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返したのである。これは、福音に逆らい、信じる者に対して悪を図る者に対する私たちのとるべき態度を示している。これを読むとき、自分を十字架につけている者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ 23:34)と祈られた主の御姿を思い起こす。これは十字架によって私たちに示された神の愛に満たされ、神の愛に生きる時にのみ、可能となる。
 

2014/2/15(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 14:67-72賛美 新聖歌35

 ぺトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(マコ 14:31)と信仰を告白していた。しかし、主が捕えられ、裁判を受けられるに至った時、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」という女中の言葉に狼狽し、3度もイエスを否んだ。信仰告白をすべき時に主を否んでしまった。人間の決心はかくももろいものである。しかし、その後ぺトロは本心に返り、主を否んだ不信仰の罪を深く悔いた。この点においてユダとは異なっていた。ぺトロは悔い改めによって主に受け入れられ、恵みにとどまることができた。私たちもぺトロと同じもろさを持っている。しかし、罪を悟った時には悔い改めて主に返ろう。主の恵みは豊かである。