2014/3/31-4/5

2014/3/31(月) 担当 高谷清師 ?コリ?コリ6:1-8賛美 新聖歌315

 この箇所においてパウロはコリント教会にはびこっていた別の問題を取り上げる。それは「あなたがたは不義を行い、奪い取っています」と述べていることからわかるように、詐欺と略奪であった。この問題をコリント教会の人々は自らのうちで仲裁者を立てて解決しょうとせず、「正しくない人々」即ち、不信者の裁判官に訴え出たのである。「正しくない人々」とは、「神の前に義とされていない人々」という意味であって、この世的にいう不正を働く人々という意味ではない。彼らについてパウロは「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです(ロマ 13:3-4)」と述べており、パウロもまた皇帝の法廷に上訴している。ここで彼が言っているのはキリスト者同士の争いについてのことである。それは不信者の裁判官に訴え出るのではなく、自らのうちで仲裁者を立てるべきである。キリスト者と世とでは価値観が共有できないからである。
 

2014/4/1 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上1:1-27 賛美 新聖歌38

 今日から歴代誌を読み始める。歴代誌は読みすごされやすい書物である。聖書を通読するときに、歴代誌の内容がこの前に置かれているサムエル記、列王記の内容と重なるからである。通読していく際に歴代誌に入ると読者にとってはこの時代についてはもう読み終わり、内容を知っていると感じ、読み飛ばしてしまうか、あるいはその独自の視点とメッセージを受け取り切れずに終わってしまう。しかし、ここでは列王記を読み終えた今、改めて歴代誌を紐解いていきたい。
 歴代誌を読み始めるにあたって遭遇する難しさは9章に及ぶ長々と記された系図である。この系図は最初の人「アダム」から始まり、実にネヘミヤの時代と考えられるアナニ(紀元前445年ごろ)にまで及ぶ。まさに創世記から出エジプト、王国時代を経て捕囚の時代をもこの系図によって網羅している。まさに神が人間とどのように関わってこられたかという経緯が凝縮された系図である。その歴史の流れの中で歴代誌はダビデの家系に関心を持ちつつ、神の言葉に導かれて歩むことの大切さを底流としてメッセージを語っていく。「神の言葉」によって立つことの大切さを私たちは考えさせられる。この書を学びつつ、神の言葉に導かれて歩むという基本的な信仰姿勢を再確認していくことができれば幸いである。
 

2014/4/2 (水) 担当 高谷清師 ?コリ6:1-8賛美 新聖歌438

 パウロは「聖なる者たちが世を裁くのです」と語って、キリスト者の権能について述べる。ヘブル書の記者は「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました(ヘブ 11:7)」と述べている。パウロは「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか?コリ2:15-16)」と語り、更に『「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさいロマ 12:20-21)』と述べている。キリスト者の清い歩みと善い行い、愛の業は、それを無視して罪を離れない世を裁くのである。主を愛し、良い香りを放つ歩みを続けよう。
 

2014/4/3 (木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上1:1-27 賛美 新聖歌340

 創世記に記されている系図に従ってアダムからアブラハムに至る歴史における系図が記されている。名前が羅列されている中で、二人の名前が目立つ。一人目はニムロドであるが、彼については『地上で最初の勇者』(1:10)として紹介されている。二人目に目立つのはペレグであるが、この名前はヘブル語の「分割する(パラグ)」という言葉に由来する。歴代誌は彼の時代に土地が分けられたからこの名がつけられたと説明する。
 歴代誌はダビデの系図を重視し、その歴史を語る。歴代誌にとって重大な「分割・分離」はやはり統一王国が北と南に分かれたことであろう。またユダの王家を引き継いでいった南王国がバビロンによって征服され、民が散らされていったことも大きな出来事であった。「ペレグ」という名を見るときにイスラエルの歴史における大きな分離を思い起こす。しかし、同時に勇者の名前が強調されていることは歴史において谷もあれば山もあることを教えてくれる。そのいずれもが神の導きの中にある。どんな時でも神はともにおられる。
 

2014/4/4(金) 担当 高谷清師 ?コリ6:1-8  賛美 新聖歌459

 パウロは「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」と述べる。主イエスは山上の説教において「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない(マタ 5:38-42)」と教えておられる。そしてパウロもロマ書において「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい(ロマ12: 21)」と教えている。悪に対して善をもって応えることこそ、キリスト者のとるべき態度であり、勝利の道である。
 

2014/3/22(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ12:4-7 賛美 新聖歌311

 イエスは通りかかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応じてレビはイエスに従った。ある日レビはイエス様一行を招いて食事の席を設けた。そこにはイエスとその弟子たちと共にレビの同僚であった徴税人や罪びとも席についていた。これを目にしたファリサイ派の律法学者は弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。世の正しい人々は自分の正しさを示すために「罪人」との交わりを絶とうとする。しかし主は罪びとを招いて悔い改めさせ、義とするために来てくださった。イエスに来る人はすべて、彼によって義とされるのである。