2014/4/7(月) 担当 高谷清師 ?コリ6:9-11 賛美 新聖歌 266
パウロは「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」と語って、正しくない者は絶対に神の国を受け継ぐことが出来ないことを示し、「正しくない者」を具体的に示す。そして「あなたがたの中にはそのような者もいました」と述べて、救われる以前の姿を思い起こさせている。以前はそのような罪びとであった者が今は、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされているのである。
「渡辺善太著作選⒉現実教会の福音的認識」の巻頭に掲載された本間義信師の「人生の出会いと神の奇蹟」と言う文章の中で師は『前出の聖書的説教セミナーでの出来事だったが、講義中の善太先生は、突然机に突っ伏され、「こんなロクでもない者を、神は救い上げて生かしてくださった」と言って、号泣されたことがあった(渡辺善太著作選⒉現実教会の福音的認識P7ヨベル)』と記しておられる。これによって渡辺師の御奉仕の原動力を見せられ、深い感動を与えられたのである。聖書には「わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ(イザ 51:1)」と記されている。自らの赦された罪の重大さを認識することこそ、赦しの偉大さを知ることと神への感謝と信仰、宣教の原動力である。
2014/4/8 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上1:28-54 賛美 新聖歌267
アブラハムとイサクの系図が記されている。この箇所において歴代誌はイスラエルの直接の子孫だけではなく、諸民族に広がっていく系図を記している。また、エサウの系図においては創世記とは異なってエサウとその子孫の男子の名を挙げていく。歴代誌は男子を通して系図が次の世代へと続いていくことを示している。この系図においてもともと地理的には異なる地域を指していたセイルとエドムという言葉が、系図を通してセイルとエドムと同じ地域として扱われるようになっている。また、この箇所の最後の部分に当たる1:43-54ではエドムの氏族、つまり首長のリストが続く。王から首長たちへとリストに残されている人の地位が変わっていることはイスラエルの歴史と照らしてみればその理由がわかる。エドムの王から首長に変化している時期にエドムはダビデ王朝に従ったので、支配者は王ではなく、首長と呼ばれるのである。
単純に名前を羅列してあるだけで読むのに苦労を覚える系図であるが、指導者の地位の呼び方にも歴代誌の立場が反映している。すなわち、歴代誌はこのリストを作成しながらも、ダビデの王朝を中心に据えている。確かな視点を持っている。この様な「確かな視点」をもって歴史を見ること、すなわち私たちの周りで起こっている出来事を見ることによって私たちもゆるぎない生の原点をしっかりと持つことができる。主を私たちの視点としているだろうか。
2014/4/9 (水) 担当 高谷清師 ?コリ6:12-20 賛美 新聖歌 302
続いてパウロは『「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない』と述べる。パウロが「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです(ガラ 5: 1)」と述べているように、キリストを信じる信仰によって与えられる自由はパウロの宣教の中心であった。コリント人たちはそれを逆手にとって、自分たちの悪行を正当化するために「わたしには、すべてのことが許されている」と主張していたのである。それに対してパウロは「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と述べる。コリント人たちの悪行は、それをやめ、行わないように戒められ、警告されているが、それを行うことは彼らの自由であった。しかし警告を無視して行うなら、自らに滅びを招くのである。ぺトロは「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい(?ペテ2:16)」と勧めている。
2014/4/10 (木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上2:1-55 賛美 新聖歌303
イスラエル(ヤコブ)の子孫たちの中でユダの系図が最初に述べられる。ここまではノアの子たちの中ではアブラハムに至るセムを最後に取り上げ、アブラハムの子らの中ではイサクを最後に扱い、エサウの後にイスラエルを扱ってきた。つまりイスラエルの本家を担う兄弟を各世代の最後に扱ってきたにもかかわらず、イスラエルの子らの中ではダビデ王家につながるユダを最初に記していることが驚きである。このことから、歴代誌が選ばれた民、イスラエルの中で新たに神との契約関係に入り、その歴史を担っていく王国の基礎を築き、中心となったダビデに強い関心を持っていることがわかる。
神が御心を行われるとき、それは歴史において実現する。選ばれた人々がその歴史の担い手の中心として、神の御業を進めていく。私たちは過去における神のご計画の歴史を知ること、つまり最終的には全世界の救いにいたるイスラエルの選びと、その家系を通じて神が働かれ、救いの道を開かれたことを覚えなければならない。そしてその歴史において様々な出来事を通して今の恵の時代があることを踏まえてこの歴代誌を読もう。
2014/4/11(金) 担当 高谷清師 ?コリ6:12-20 賛美 友よ歌おう74
さらにパウロは『「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。』と述べる。この箇所についてカルヴァンは「わたしたちはすべてのものの主人として立てられたものであるから、何ものの隷属下にも屈すべきではない。自分の邪欲を制することができない者は、邪欲のとりこになっているのである・・・・・わたしたちは、すべてのものの主人なのである。そうであるために、わたしたちは、主人の地位をみだりに用い、不節制と過度の欲望によって、みじめな隷属状態におちいり、かえって、わたしたちに従うべきはずの外的なものに支配されるということがあってはならない(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P146新教出版社)と述べている。世には○○中毒、××依存症等等、自分の意志によって始めながら止められなくなってしまった状態、我欲から出発して抜けられなくなった状態等々、隷属状態に陥り、支配されている状態を目にする。私たちはどんな時にも神により頼み、主に在るまことの自由に歩もう。
2014/4/12(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 6:30-44 賛美 新聖歌318
飢え渇いた、飼い主のいない羊のような群衆がイエスのもとに集まってきたので、イエスは彼らを深く憐れみ、いろいろと教えておられた。そこは人里離れた場所であり、時もだいぶたち、日も傾いたので弟子たちは主に「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」とお願いした。しかし主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは当惑して「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。しかし主は彼らのうちにあった五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、男が五千人も居たが、すべての人が食べて満腹した。
私たちの目にはわずかなものと映るものでも主の手に委ねられるとき、多くの必要を満たすものとなる。自分に与えられているタラントは、人の目には小さいかもしれないが、主に献げて用いていただくとき、偉大な働きをなす。主に献げて仕えよう。