2014/6/16-21

2014/6/16(月) 担当 高谷清師 ?コリ7:29-3 賛美 新聖歌 316
 この項の結びとしてパウロは「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」と述べる。「品位のある生活をさせて」と訳されている箇所を口語訳は「正しい生活を送って」と訳し、新改訳は「秩序ある生活を送って」と訳している。私たちが創造されたのは神ご自身の愛の対象としてであり、交わりの対象としてであった。にもかかわらず、人間は罪を犯して神の創造の目的にふさわしくなくなった。そのような人間を、御子の血潮によって清め、回復してくださったのである。それ故パウロは「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである(?コリ10:31)」と述べている。そのために私たちは「品位のある生活」「正しい生活」「秩序ある生活」即ち、御言葉に従う生活を送って神の栄光をあらわすことが大切である。すべてはそこから判断されるべきである。

2014/6/17 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上14:1-17 賛美 新聖歌302  
 ダビデが神の箱をエルサレムに運び入れることに失敗した後の出来事である。ここでは一転してダビデは主に祝福される。ヒラムの王は驚くほどの贈り物を携えて来た。さらにダビデ個人に関しても家族が増し加えられ、神の祝福が豊かにあった。13章での経験からのこの突然の変化は何によるものだったのだろうか。ダビデの姿をそれぞれの章において比較してみると、14章ではペリシテ人と最初に戦うときに神の御心を訪ねてから戦い(14:10)、二度目の戦いに臨むときにも神に尋ね求め、神の指示に従って戦ったことがわかる(14:13-16)。ダビデが最初に神の箱をエルサレムに運ぼうとした時の失敗は、ダビデ自身の意向と判断によってことを行い、神に尋ねなかったことであった。しかしここではダビデは以前の失敗から学び、まず神の御心を知ってから行動している。
 私たちの信仰生活でも「なぜ神はこのようなことをなさるのか」と悩むことがある。その中から神の前に生きる自分自身の信仰について教えられることがあるかも知れない。あらゆる状況において神に心を開き、主に導かれて歩もう。

2014/6/18 (水) 担当 高谷清師 ?コリ?コリ7:36-38 賛美 新聖歌 399
 すべてのことは神の創造と救いのうちにある御心に従って判断されるべきである。そして選択については、各々が賜っている賜物に従ってなされるべきである。これについてパウロは「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです(ロマ 14:5-8)」と述べている。

2014/6/19 (木) 担当 ラウジー満世師 1-29 賛美 新聖歌394 
 主からの祝福を受けたダビデは再び神の箱をエルサレムに運び入れる計画を実行する。二度目の時にはダビデは以前とは違って主に定められた方法で箱を移動することに細心の注意を払う。彼は最初の経験から自分たちが『法に従って主を求めなかった』(15:13)ことが大きな間違いであったことを理解していたから、二度目には神のことばに忠実に行おうとしたのである。神の箱の扱い方にはダビデとサウルの違いが明白に表れている。サウルは神の箱をおろそかにした(13:3)。ダビデは最初から神の箱の重要性を知り、これを重んじてエルサレムに持ち帰ろうとしたが、その方法が律法の規定に沿う方法ではなかった。その間違いに気づいたときにダビデは自分の過ちをただし、状況が整ったときに再び今度はふさわしい方法で神の箱を迎え入れた。
 根本的にダビデとサウルは神の箱、ひいては神に対する信仰姿勢が違っていた。第一にすべきものを第一にしたダビデと、不信仰の故に神を軽んじたサウルという違いであった。そしてダビデは失敗を通して神が求められる方法で、神の求められることを行うことの必要性を学んだ。神の御心を知ること、神のやり方を知ることが信仰の歩みの第一歩である。

2014/6/20(金) 担当 高谷清師 ?コリ7: 39-40  賛美 新聖歌 332
 パウロは結婚に関する勧めの最後として夫を亡くした婦人について語る。ローマの信徒への手紙においてパウロは「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです(ロマ 7:2)」と述べている。従って「夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません」と語っているのである。しかし「相手は主に結ばれている者に限ります」と言う。彼はキリストに対する忠誠を同じくしない者同士の結婚によってクリスチャン生活・結婚生活の破綻を招く多くの事例を見てきたのである。それ故「不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか(?コリ 6:14)」と述べている。心を合わせて主に仕えるためには、結婚相手は主に結ばれている者に限ることが大切である。

2014/6/21(土) 担当 高谷由紀子師マルコ7:14-23   新聖歌225
 ファリサイ人や律法学者たちは律法を忠実に守り、習慣や言い伝えや形式を重んじ、固守することに熱心であった。穢れの問題についても彼らは外面的なものに汚れの原因があるので、それによって穢れに染まって罪に至ると考えた。形式を重んじるファリサイ人や律法学者の生き方とは対照的に、主イエスは神に対して真実に生きることによってみ言葉の真理を人々に示された。主イエスはすべての人の内面、すなわち心のうちにある悪意が人を汚して罪に至ることを教えられた(19-23節)。
 私たちの罪と穢れを清くし、聖なるものとして生きる道はただイエスキリストの血潮以外にはない(1ヨハネ 1:7)。”,,1226″