2014/6/23-28
- 2014.06.23
- ディボーションの友
2014/6/23(月) 担当 高谷清師 ?コリ8:1-3 賛美 新聖歌 359
コリントの人々から寄せられた問題について答えているパウロは、結婚の問題に答えた後、「偶像に備えられた肉を食べること」の問題について答える。コリントは異教の地であり、町は偶像であふれていた。それらにはおびただしい肉の供え物が供えられ、その肉が市場に流通していた。この肉を食べることについてコリント教会で論争が起こっていたのである。ある人たちは、そのような肉を食べることは偶像を認めることになるとして反対していた。しかし「我々は皆、知識を持っている」と主張する人々は、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」と主張して「偶像に備えられた肉を食べること」は何ら差支えないとして偶像の神殿においてさえ、食事の席に着いたのである。パウロは「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです(?コリ8:10-12)」と述べている。私たちは自分の知識によって弱い兄弟姉妹を躓かせることがあってはならない。愛によって歩もう。
2014/6/24 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上16:1-13 賛美 新聖歌21
契約の箱がエルサレムに運び入れられたとき、まず行われたのは感謝と賛美であった。ダビデはこの契約の箱の前での賛美をするようにレビ人を立てた。これがエルサレムで最初の礼拝、祭儀である。ダビデは神殿を建てることは後に禁じられたが、次の世代に建てられる神殿での礼拝の基礎を形作り、備えていく。
ダビデの命令に応じてアサフとその兄弟たちが歌い始める。16:8-13の部分は詩編105編と同じである。契約の箱の前での最初の賛美を始めるにあたり、人々は賛美へと何度も招かれる。そこにいる人々が一致して神を賛美するのである。賛美では人々は主に対して感謝をささげる。主の御名を呼び、主を尋ね求めることが賛美を通して呼びかけられる。さらに、その賛美はイスラエルが主の民として諸国に神の御業を述べ伝える証しでもある。主が過去に成し遂げられた奇跡はそれを経験したイスラエルを励ますだけではなく、神を知らない人々へも力強い証言となるのである。
私たちが捧げる賛美も神との個人的関係においてささげられるものであり、なおかつそれは私たちを取り巻く神をまだ知らない人々への証しでもある。今日も賛美の絶えない一日を歩みたい。
2014/6/25 (水) 担当 高谷清師 ?コリ8:1-3 賛美 新聖歌 222
「我々は皆、知識を持っている」と主張する人々に対してパウロは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と述べる。小畑進は「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、(フィリピ1:9)」を引用して「愛は知識によって育てられることが明言されてのことです。知識は愛の反対物ではなくて、愛に仕えるもの、必要不可欠なものとしてです。けれどもそれが、愛を捨象して知識のみがのさばるとき、その知識は本来の知識ではなくなります。そのことが、偶像無存在・供物無差別・飲食無頓着といった論理だけで押し切る知識主義者らに対して、厳しく警告されたのです。「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」と。(コリント人への手紙第一提唱P340いのちのことば社)と述べている。真の知識は愛を基礎とするものでなければならないのです。キリストの愛、十字架の愛に立って歩みましょう。
2014/6/26 (木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上16:14-22 賛美 新聖歌340
いよいよ賛美の本題に入っていく。イスラエルが長い歴史を経てダビデの王国時代にたどり着き、契約の箱をその都エルサレムに迎え入れたこの時、神への賛美において振り返ったのは民としてのイスラエルの始めであるアブラハムの時代であった。イスラエルの父祖アブラハムを神が選ばれ、契約を結ばれた。その無条件の契約は世代を経て保たれていった。アブラハムから息子イサクへ、さらにヤコブへと一方的な神の賜物を約束されたこの契約を、神は違えることなく確実に「とこしえの契約」(16:17)としてダビデの時代まで守ってこられたのである。どんな小さな国であっても、神は歴史の背後にあって神の民イスラエルを守っておられる。
神への賛美において、人々は過去における神とのかかわりにおいて示された御業と誠実をまず想起する。神はその契約に忠実であり続けられた。このことを思い起こすときに人々は感謝に満たされる。私たちとの関係においても神は忠実であり続けられた。その慈しみを思い起こすことは感謝への力となる。
2014/6/27(金) 担当 高谷清師 ?コリ8:1-3 賛美 新聖歌 344
真の知識についてカルヴァンは次のように述べている。「『知識は、それ自体よいものであるが、不信者のうちにあっては、空疎なものとなり、無益なものになる。神へのおそれこそ、知識の唯一の真実の基礎だからである。同様に、愛がないときには、知識は、気のぬけた、味のないものになる。愛は、知識のソースのようなものである』。わたしたちは、神を真に知ることによって、へりくだり、兄弟を助けることを学ぶのである。まさしく、この真の知識がないところでは、知識は、知識であるというより、むしろ、むなしい知識の観念にすぎない。知識にたけた人と思われている者にしたところが、そうなのである。しかし、知識は、怒り狂った男の手の中にあるナイフと同じことで、ただそれだけのことで、非難されるべきものではない。わたしが、このことを言っておきたかったのは、すべての学芸・公正な学問を非難攻撃する、途方もないやからが、どっさりいるからである。かれらは、まるで、学芸や学問が、人間を倣慢にする以外の役に立たず、神を知るにも、日常生活を律するにも、大して有益な手段・道具となるはずがない、とでも言わんばかりである。ところで、このように学芸・学問を中傷するやからも、実は高慢にふくれ上がっているのであって、身をもって、『ばかにつける薬はない』というむかしのことわざの真実性を証明しているのである。(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P191新教出版社)」
神への畏れと愛に裏付けられた知識だけが真の知識である。
2014/6/21(土) 担当 高谷由紀子師マルコ10:23-27 賛美 新聖歌38
主イエスは弟子たちに「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と言い、重ねて「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と語られた。弟子たちが驚いて「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言い合っていると主は「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と言われた。財産や富を持つ人はそれに心捕えられ、神を見ることが出来ません。神により頼むことが出来ないからです。主が弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われたときシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。これに対して主は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と語られました。神だけが私たちの心の目を開いて真理に導いて下さるのです。常に、世のものではなくいける神に目を注いで歩みましょう。”,,1146″
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