2014/10/6-11

2014/10/6 (月) 担当 高谷清師 ?コリ10:14-15 賛美 新聖歌 166
 パウロは「偶像礼拝を避けなさい」と語る。これは「現在時制の命令形なので、それを習慣的に実践するよう、指示している(ティンデル聖書注解コリント人への手紙第一P173いのちのことば社)」ということである。「偶像礼拝」についてカルヴァンは『コリント人たちが心から偶像をあがめていると考えるほどに、かれらが神を感じ、神を知る知識に欠けていた、とは思っていなかった。しかし、かれらが、はばかるところなく偶像礼拝者の集りにしげしげと出かけたり、偶像のためにもよおされた儀式に参列したりしていたので、その気ままな放縦ぶりを非難したのである。このような放縦こそ、正しくない行為の見本であった。もちろん、かれがここで「偶像礼拝」と呼ぶのは、外的なこと、つまり、よりくわしく言えば、偶像礼拝を公言したり・顕示したりすることである。ところで、わたしたちが神礼拝をするにあたって、内面的な礼拝をささげることが肝心であるにもかかわらず、ひざまずいたり、そのほか、頭を下げたりなどして、それで礼拝したといっているが、偶像についてもこれと同じことが言える。相反する事柄には、かえって同一の理由が存在するものである。だから、今日、多数の人々が偶像礼拝の外的な行為や動作を、「そこには心がない」という口実で大目にみようとしているのは、むだなことである。パウロは、このような動作をも断罪するのである。そして、もちろんこれは当然のことであった。このようにわたしたちは、心の内なる思いのみならず、礼拝の外的なあらわれについても、神に対して責任があるのであるから、 うわべだけでも偶像を礼拝する者は、それだけ神に対してささげなければならない敬意を割引しているわけである。「自分の心は、そこにはないのだ」 と、どんなに弁解したところで,当然神にささげるべき敬意を偶像に移したというその行為は、かくれのないものである。(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P237新教出版社)」と述べている。秋祭りたけなわの今日この頃、誘惑は多い。「付き合いだから」「習俗だから」・・・に気を付けよう。

2014/10/7(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下2:10-17  賛美 新聖歌166  
 ティルスの王フラムが神殿建築の準備のためのソロモンの依頼に答えて手紙を送ってきた。この中でフラムはソロモンの求めに応じて技術者を送る約束をしている。驚くべきことはこの了承を伝える手紙の中でフラムが真の神をたたえていることである。異邦人であるフラムがどうしてイスラエルの神を認め、たたえたのだろうか。この賛美の中でフラムは、神がダビデに聡明な子を与えたと述べている。つまり、フラムはソロモンが知恵ある人であることを認め、それが天地を作られたイスラエルの神からの賜物であると認めている。そしてフラムはこのイスラエルの神がこれほどの深い知恵を与えることができる神であることを知ったのである。
 天と地を作られた神は,信じて従う人々にとってだけ力ある神なのではない。神はあらゆる人の神であり、その知恵と栄光はイスラエルの国境、神を信じる人々の範囲を超えて知られるのである。今日もこの世界を支配しておられる神をほめたたえよう。

2014/10/8 (水) 担当 高谷清師 ?コリ10:13 賛美 新聖歌 222
 パウロは「偶像礼拝を避けなさい」と命じるにあたり、コリント人たちに「わたしの愛する人たち」と語りかけている。彼はこの手紙においてコリントの聖徒たちのうちにはびこる罪を指摘し、叱責してきた。コリント人はそのように叱責されるべき存在であったにもかかわらず、「愛する人たち」であった。4:4においては「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」と述べている。私たちが誰かを戒め諭そうとするとき、それは愛によってなされなければならない。私たちの誰もが直面する子育てにおいては、戒め諭さなければならない場面に必ず遭遇する。その場合、その子の行く末を想い、愛によってなされなければならない。もしその子の行為によって自分に何らかの不利益が降りかかり、怒りが私たちの心に満ちる時、それによって叱ってはならない。怒りが収まるまで待つべきである。パウロは言う「父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい(エペ6:4 [口語訳])と。

2014/10/9(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下3:1-5:1  賛美 新聖歌137
 3章と4章にはソロモンの神殿建築の詳細が書かれている。ソロモンが建てた神殿は壮麗なものであった。ソロモンは最高の技術を用いて神殿を建築した。神の宮として最上のものをささげたのである。この部分には神殿の装飾品も細かく記されており、その豪華さが私たちの目をひく。それと同時に、神殿の構造も細かく記されている。構造を見ていくと、ボアズとヤキンと呼ばれる柱(3:17)の間を通って神殿に入ると前廊に入る。そこからさらに進むと拝殿に入る。そして最後に至聖所に至るのである。神殿の内部の構造がこの様に区切られていることは、聖性の段階が厳密に区別されていたことを改めて思い起こさせる。至聖所には年に一度、大祭司だけが入ることができたのである。
 神に近づくことがどれほど重い意味を持つことであったのか、この神殿の構造は思い起こさせる。私たちは祈りにおいて大胆に神に願い求め、礼拝と賛美において神の臨在に触れる。神との親しい交わりの恵みを受けている。その感謝と同時に、神が聖なる方であり、聖ではない私たち人間とは本質的に異なる方であること、そして神に近づくことは畏れを起こさせることであることもまた思い起こしたい。神への畏れを持ちつつ、神を愛し、仕えよう。

2014/10/10(金) 担当 高谷清師 ?コリ10:16-20  賛美 新聖歌 427
 私たちが聖餐式において杯にあずかることはキリストの血にあずかることである。パンにあずかることはキリストの体にあずかることである。私たちは聖餐式において、信仰によってキリストと結ばれ、一つとされる――主が「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります(ヨハ 17:23)」と語っておられるように――のである。そうであれば、偶像の食卓にあずかることは悪霊と結ばれ、一つになることである。何故なら「偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている」からである。主の贖いの恵みにあずかった者たちは決して悪霊の仲間になってはならない。それ故、いかなる言い訳を考えるとしても、偶像礼拝は避けなければならない。

2014/10/11(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 8:40-48  新聖歌452
 イエスが会堂長ヤイロの求めに応じてその家に向かっておられた途上においての出来事が記されている。12年間にわたって病んでいた一人の婦人がいた。彼女は、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえないで失意の中にいた。その頃、多くの人を癒されたイエスの噂を聞き、イエスに最後の望みをかけていた。そこにイエスが通りかかられたので、彼女は恐る恐るイエスの衣にふれた。すると直ちに癒された。主は恐れおののく彼女に向かって「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われた。神の恵みは信じる者の上に豊かにあらわされる。今日も信仰によって歩もう。”,,1086″