2014/10/20-25
- 2014.10.20
- ディボーションの友
2014/10/20 (月) 担当 高谷清師 ?コリ10:23-24 賛美 友よ歌おう 74
コリントの人々はキリスト者の自由の権利を自己弁護の口実にしていた。これに対してパウロは『「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない』と述べる。日本においては、すべての成人に飲酒が認められている。すべての日本人成人は飲酒の権利を持っている。しかし過度な飲酒は健康破壊、家庭破壊、自己破壊をもたらす。「すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」のであり、すべてのことが益になるわけではないのである。パウロは「自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」と命じる。それは私たちの救いのために御子をさえ与えてくださった神の愛から出る。主イエスは『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(マコ 12:33)と語っておられる。自己愛ではなく、主が私たちに与えられたアガペーの愛に生きよう。
2014/10/21(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下6:17-31 賛美 新聖歌389
ソロモンの神殿での祈りが続いている。神は偉大なお方である。ソロモンが祈ったように、確かに神は、壮大な神殿にもおさめきれるようなお方ではない。それでもソロモンはいつも神殿に目を注ぎ、そこでささげられる祈りを聞いてくださいと神に求めた。それは人が最大限の努力をし、できる限りのものをすべて費やして神殿を建てたという人の側の行いによるものではなかった。神が祈りを聞いてくださるのは、ただただ、偉大な神がこの神殿を選び、御名をこの場所に置くと定められたからである(6:20)。神はご自身がその臨在を顕す場所として地上を選び、そこで起こることをすべて知り、聞いてくださっている。そしてこの神殿では神に従う人々が様々な祈りをささげた。それはイスラエルの社会全体としての必要を訴える祈りであり、また個人の守りと必要の充足を求める祈りでもあった。どのような祈りでも神に聞いてくださいと求めることができ、実際に神は臨在を顕されるところですべてを聞いてくださるのである。
毎日の祈りはしばしば勧められることである。そして私たちは信仰をもって祈る。しかし時にはこの祈りは神に届いているのだろうかと疑問を持ったり、どうも届いていないらしいと不安になったり、また神にとってはちっぽけなことであろうこんな祈りを祈ってもよいのだろうかと遠慮してしまったりする。しかし、どんな祈りでも神は耳を傾けて正しく報いてくださるのである。
2014/10/22 (水) 担当 高谷清師 ?コリ10:25-27 賛美 新聖歌 340
パウロは市場で売っているものについて「良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と言い、また、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合について「自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と語る。何故ならそれは「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからである。パウロは先に「わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか(?コリ10:19)」と述べて、偶像そのものは意味を持たないことを明らかにした。それに続いて「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません(?コリ10:20)」と述べて、偶像によって働く悪霊こそ問題であることを明らかにした。キリスト者はキリストの血によって悪霊から解放され、守られている。従って、市場で売っているもの、信仰を持っていない人から招待され、それに応じた場合に自分の前に出されるものを食べる場合、いちいち詮索する必要はない。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからである。信仰によって歩むことこそ大切である。
2014/10/23(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下6:32-42 賛美 新聖歌302
ソロモンは続いて異国人の祈りに言及している。驚くことに、神の民に属さない異国人の祈りでさえも天から耳を傾けて聞いてくださいと語っている。神への祈りは神を信じる人々と神との間でだけなされるものと私たちは考える。しかしソロモンは異国人であっても、彼らが神殿に来て祈るなら、すなわち信仰を確信していない状態であっても神を求めて祈るなら、祈りを聞いてくださるようにと述べるのである。神は全地の主であり、造られた人々のすべての神である。それゆえに今建てられたこの壮大な神殿だけではなく、捕虜になっている地での祈りにも耳を傾けて、民を赦してくださいと祈ることができるのである(6:38-39)。
神はあらゆることの支配者である。それゆえに、心から神を求める人がどこに居ようと、その祈りを聞いてくださるのである。しばしば私たちは祈りを限定的に考えてしまっていないだろうか。祈りの対象である神を小さなお方に限定してしまっていないだろうか。神は祈りを聞いてくださる。安心して、神が公平に祈りに答えてくださることを確信して今日も祈ろう。
2014/10/24(金) 担当 高谷清師 ?コリ 賛美 新聖歌 317
市場で売っているもの、信仰を持っていない人から招待され、それに応じた場合に自分の前に出されるものについて「良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と語ったパウロは一転して『もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません』と語る。パウロが8章において語ったように、すべてのキリスト者が知識を持っているわけではない。知識を持たない弱い人々が、知識を持つ人々が偶像に供えられた肉を食べるのを見たなら、偶像に供えられた肉を食べるようになり、滅びてしまう。従って「これは偶像に供えられた肉です」と告げる人があれば、その人の良心のためにそれを食べることをしてはならないのである。あなたの知識によって弱い人々を滅ぼしてはならない。私たちの主は「正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない(マタ 12:20)」お方である。
2014/10/25(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ14:43-50 新聖歌205
ユダはイエスを裏切るために接吻という手段を選んだ。これはあいさつの習慣であり、尊敬と愛を示す行為であった。この行為をもってユダはイエスを祭司長や律法学者たちに売り渡した。三年間寝食を共にしてきた師であるイエスをこのような方法で簡単に裏切るユダの姿を通して人間の姿が見える。一方、主は「これは聖書の言葉が実現するためである。」と言って、神のご計画が成就するために捕えられた。主は何も弁解なさらず、事態を受け止め、孤独と痛みに耐えられた。それはご自分を裏切り、罪を犯し、死に定められた人間への愛によるのである。神の愛の偉大さを想い、感謝しょう。”,,1127″
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