2014/12/22-27
- 2014.12.22
- ディボーションの友
2014/12/22 (月) 担当 高谷清師 ?コリ13:4-7 賛美 新聖歌 373
愛の結果、愛の実の第四は「自慢せず」である。これについて小畑進は『「ねたみ」が起これば、何とかして自分を勝れたものにしようとして、つまらぬものを自慢することになります。「愛は内気なり。おのれをもって足ればなり。愛は名を売りて世の賞讃を買うの要なし。人の誇るは、おのれの真価以上に人に評価せられんがためなり。されども純金は鍍金するの要なきがごとく、真愛はこれをてらうの要なきなり。金は金なり、愛は愛なり。愛にあるものは『量りを越えて誇らざるなり』(?コリント10:13筆者)(コリント人への手紙第一提唱P566いのちのことば社)』と述べている。主もまた「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい(ルカ 17:10)」と教えておられる。人はとかく、自慢したいものである。しかし、主が高くしてくださるのでなければすべては空しい。
2014/12/23(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下15:1-19 賛美 新聖歌209
クシュとの戦いの後、アザルヤの預言が与えられた。アサが主と共にいるなら、主が共にいてくださる―忠実なものと共に神はいてくださるという、何度も人々に神が語ってこられた言葉である。ダビデの時代にエルサレムに契約の箱が搬入され、祭司職が整えられ、人々が再び神を知り、シャロームが回復されたように、アサもこの時代に神殿のあるべき姿を整え、礼拝を整える働きを与えられた。そしてその言葉に従ってアサは攻め取った領土から偶像を除き、神殿の祭壇を新しくしたのである(15:8)。
アサは神と共にいることを選び、また人々にも神殿において心を尽くし、魂を尽くして主を求めることを教え、実行した。神との正しい関係を持つとき、私たちは正しい礼拝を求め、また形だけではなく、神を愛する。神を愛し、神の愛に思いを寄せ、私たちを罪から救う神の愛に感謝しよう。
2014/12/24(水) 担当 高谷清師 ルカ 2:8-21 賛美 新聖歌 82
Merry Christmas 今からおおよそ2000年前の今宵、野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしている羊飼いたちに主の天使が近づき、救い主の降誕を告げた場面が記されている。羊飼いと言えば当時のユダヤ社会において最下層に位置づけられ、人々から軽んじられていた者たちであると言われている。神はそのような人々に天使を遣わし、真っ先に救い主の降誕を告げ知らされたのである。
パウロは「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです(?コリ1:26-28)」と述べている。
とるに足りない者を選び、尊い救いにあずからせてくださった神に心からの感謝を献げよう。
2014/12/25(木) 担当 ラウジー満世師 マタイ2:1-12 賛美 新聖歌96
約2000年前のこの日に主がお生まれになった。日本ではクリスマス・イブですべて終了したような印象を受けるが、今日は主の降誕を覚えてみ言葉を読みたい。
東方からの三人の博士の訪問についてはマタイだけが記している。彼らの名前も記されず、詳しい紹介は一切なされていない。彼らは星によってダビデの家から偉大な指導者が生まれることを知り、この王を訪ねて来た。三人は王へのふさわしい贈り物として黄金、乳香、没薬を携えていた。この異国の博士たちは生まれた子をイスラエルの王として受け入れたのである。しかし没薬は王にふさわしい贈り物であると同時に、遺体の埋葬のための薬でもあった(ヨハネ19:39)。イスラエルの王が民から拒まれ、死ななければならないことも象徴している。イスラエルの王を受け入れた異国の三人とは対照的に、ユダヤを支配するヘロデはこの王の誕生を拒んだ。
私たちは心から王である御子の誕生を待ち望み、喜びをもって今日を祈りと感謝のうちに過ごしたい。
2014/12/26(金) 担当 高谷清師 ?コリ13:4-7 賛美 聖歌 156
愛の結果、愛の実の第五は「高ぶらない」である。この箇所についても小畑進の言葉を引用させていただきたい。師は「次は「高慢になりません」。兼好法師は言います、「人としては、善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他にまさることのあるは、大きなる失なり、品の高さにでも、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひことばに出でてこそいはねども、内心にそこばくのとがあり。つつしみてこれを忘るベし。をこ(馬鹿〉にも見え、人にもいひけたれ〈軽蔑せられ〉、わざはひをもまねくは、ただこの慢心なり。一道にも誠に長じぬる人は、みづから明らかにその非を知る故に、志常に満たずして、終に物に伐ることなし」と。しかり、愛の一道に誠に長じたる者は、上に向かって誇らず、下に向かって高ぶらずと申せましょうか。自らは王子の身でありながら、家臣・義弟ダピデの名声をねたむことなく、高慢どころか、真の友情をもって庇護したヨナタンの足跡の香りをなつかしみます。(コリント人への手紙第一提唱P566いのちのことば社)」と。私たちに救いを与えてくださった十字架のもとに侍る時、ただひれ伏す以外に無い。
2014/12/27(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ18:21-22 新聖歌359
ペトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(18:21)と尋ねた。日本には「仏の顔も三度まで」と言う諺があります。人間の感覚では同じ過ちを繰り返した場合、赦すのは三回が限度という思いがあります。しかしペトロは主イエスと日頃親しく接していて、イエス様が愛に富んだお方であることを実感していましたのでだいぶん奮発して七回までかと尋ねたのでした。これに対して主イエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(18:22)とお答えになりました。これは無限に赦しなさいという意味です。
主はご自身の命を持って私たち人間に罪の赦しを与えてくださいました(26:28)。またエフェソ書には「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェ4:32)と書かれています。主の無限の赦しに感謝し、互いに赦し合う者となりましょう。”,,1159″
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