2015/2/23-28
- 2015.02.23
- ディボーションの友
2015/2/23 (月) 担当 高谷清師 ?コリ14:6-19 賛美 新聖歌 40
異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしであると語ったパウロは「預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです」と語る。聖霊の臨在にふれ、神を知り、悔い改めて神を信じる者となった人は御言葉によって養われ、成長していく。詩篇の作者は「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯(詩119:105)」と告白し、ぺトロは「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです(?ペト 2: 2)」と勧めている。更に、試みるものに「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。(マタ 4:4)」とお答えになった主は「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである(ヨハ 6: 55)」と語っておられる。霊の命を支え、成長させるのは御言葉であり、主イエスご自身である。御言葉とその解き明かしはクリスチャン生活にとって不可欠である。
2015/2/24(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下24:23-27 賛美 新聖歌427
ヨアシュは祭司ヨヤダの死後、神に従うことを止め、祭司ヨヤダの子ゼカルヤを通して与えられた警告にも耳を貸さなかった(24:20)。ヨアシュの反応に全く関わりなくこの警告の言葉は実現した。かつてイスラエルと共謀して戦ったアラムが今度は南王国に攻め込み、あっという間にエルサレムの高官をすべて殺し、都を略奪した。ここにはこのようなことが起こった理由が明確に示されている。それは彼らが「主を捨てたから」である。
神は愛の神であり、神を信じる者を顧みてくださる。しかし、愛であるがゆえに何をしても無条件に赦してくださると侮ってはならない。神は私たちに対して忠実なお方である。そして私たちとの交わりを求め、私たちと神との関係において忠実であることを求められる。神に愛されているからこそ、その愛に甘えず、私たちも心から神を慕い求めよう。
2015/2/25(水) 担当 高谷清師 ?コリ14:6-19 賛美 新聖歌 408
パウロは異言のマイナス面について「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」と語っている。異言は神によって与えられるものであり、それ故大切で尊ぶべきものである。しかし、コリント人は超自然現象である異言の賜物を誇り、競い合っていたのであった。そのため、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来てこの現象を見た時、「この人たちは気が変だ」と思わせかねなかったのである。ルカは「「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた(使 2:13)」と記してペンテコステの日にパウロが警告している事態があったことを報告している。神が与えてくださった賜物は知恵により、秩序をもって用いなければならない。
2015/2/26(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下25:1-13 賛美 新聖歌166
25章全体にわたって記されているアマツヤの時代はその父ヨアシュのものとそっくりである。彼らの治世は順調にスタートしたが、その良き時代は瞬く間に過ぎ去り、後半は戦争による荒廃、そして反乱による死を迎える。アマツヤは王に即位してから間もなく「主の目にかなう正しいことを行った」(25:2)と記されている。確かに律法を守り行い、戦いに出るときにも神の人の言葉に従って北王国から雇った兵士を戦いに加えることなく北王国へ帰した。この時ユダ王国は喉から手が出るほど戦士を必要としていたにもかかわらず、神のことばに従ってせっかく賃金を支払って雇った兵士をただで帰したのである。しかし、この良き時代のアマツヤの行動を報告するときであっても、歴代誌は、実は彼の心が全く主と一つになっているのではなかったと報告している(25:2)。この報告を聞きながらも、実際にアマツヤの行動を見ている私たちはこれほどの信仰の決断をしていくアマツヤが本当に神と心を全く一つにできていなかったのかと疑ってしまう。しかしやがて彼の本当の姿が露見する。
私たちは信仰をその人の行動として現れる姿によってしか判断できない。また私たちの信仰もその様に判断されるだろう。頑張って良い行いをしていればたとえそれが本当の神への愛から出たものでなくても他人や自分を欺くことができる。しかしすべてを見通しておられる神がおられる。自分自身、深く自分を見つめ、神の心と全く一つとなった信仰によって歩みたい。
2015/2/27(金) 担当 高谷清師 ?コリ14:6-19 賛美 新聖歌 38
預言についてパウロは「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう」と語る。御言葉についてヘブライ人への手紙の記者は「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです(ヘブ 4: 12)」と語っている。またヤコブは「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます(ヤコ 1: 21)」と述べている。魂を救うことが出来るのは御言葉だけである。御言葉を語ろう。御言葉を解き明かそう。預言の賜物を求めよう。
2015/2/14(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 10:25-28 新聖歌337
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と問う律法の専門家に対して主が「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返されると、律法学の専門家は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えています。それに対して主は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と答えておられます。主イエスは全世界の人々を愛してその救いのために十字架についてくださいました。その主が「隣人を自分のように愛しなさい」と言われたのです。私たちが会ったこともない全世界の人々をではなく、家庭で、近隣で、学び舎で、職場で日々接する人々を、建前ではなく現実に、私たちが主から受けたキリストの愛をもって愛していきましょう。”,,1170″
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