2015/5/11-16
- 2015.05.11
- ディボーションの友
2015/5/11 (月) 担当 高谷清師 ?コリ15:20-22 賛美 新聖歌 338
前段落においてパウロは死者の復活を否定する人々の説について「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と述べ、死者の復活を否定する人々はキリストの復活をも否定していることを示した。そして「キリストが復活しなかったのなら」と言って、キリストが復活しなかった場合の結果について示した。その場合、キリストを信じて眠りについた人々は滅んでしまったのであり、この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者となるのである。しかしキリストは復活して多くの人々にご自身を顕されたのであり、キリストの復活は否定しえない事実である。このキリストの復活の私たちに持つ意味は「初穂」となられたことである。それはキリストにある人々も復活することを意味している。キリストの復活は私たちキリストを信じる者に対する永遠の命の保証である。
2015/5/5(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下33:1-11 賛美 新聖歌238
ヒゼキヤの死後、王になったのはマナセであった。ヒゼキヤは宗教改革を行ったが、マナセの時代になるとあっという間に彼は偶像礼拝を再開した。父が取り壊した異教の高台を再建し、偶像を礼拝し、占いやまじないを行い、口寄せや魔術や霊媒を用いた。まさに、あらゆる方法をもって主の怒りを招いた。さらに悪いことにマナセは王であったので、当然マナセの生き方と信仰には追従する者達がいたのである。マナセは国の住民を惑わした。これは神との契約に誠実に生きるべく選ばれたイスラエルにとっては死活問題であった。王だけではなく、指導者の立場にある人々は誰も皆強い影響力を持っている。本人が自覚していなかったとしても、指導者の行いはとてつもなく大きな影響を人々に及ぼすのである。
クリスチャンとして様々な責任を与えられ、リーダーとしての立場にいる者は、大きな影響力を持っているという自覚を持って日々神の前に忠実に歩まねばならない。より高い地位はより大きな影響力を伴うのであり、それ故により大きな責任を自覚していなければならない。マナセの時代も今の時代も同じである。
2015/5/13(水) 担当 高谷清師 ?コリ15:20-229 賛美 聖歌 236
「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」と述べる。神はこの世界を良いものとしてお造りになった。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった(創 1:31)」と言われているとおりである。しかしそこに罪が侵入してきた。人類の始祖アダムが蛇の誘惑に屈し、神のことばに背いたのである。その結果、世は虚無に服し、死が支配することとなった。世のこの状態についてパウロは「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています(ロマ 8:20-22)」と述べている。服従させられた人を含む被造物の希望、それはキリストの復活によって成就する。
2015/5/14(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下33:12-25 賛美 新聖歌188
即位後すぐに罪を犯し、ユダとエルサレムの民をも罪へと導き、神の警告にも聞き従わなかったヨシヤは捕囚としてバビロンへ連れていかれた。彼の犯し続けた罪の大きさに見合う神の裁きであり、これは当然の結末だと考えるだろうか。歴代誌ははっきりとこの捕囚の経験は彼の罪の結果であったと述べている(33:11)。この状況に至ってようやくマナセはへりくだって主に祈り求めた。ようやく神に立ち帰ったのである。
もし私たちに対してさんざん悪を行い続けた人がマナセのように悔い改めたとしても、私たちは誤っている人に対して「もう遅い。」と冷たく言い放ち、突き放してしまいたくなるかもしれない。しかし神はこれほどの悪を行ったマナセでさえも、彼がへりくだって祈り求めた時に、その祈りを聞き、マナセを回復させ、赦してくださった。ここに神の憐れみ深さがみられる。どこまでも民を愛し、悔い改めを待ってくださる主が今日も変わらずこの地に目を注いでおられる。
2015/5/15(金) 担当 高谷清師 ?コリ15:23-25 賛美 新聖歌 465
「キリストは死から復活して、キリストにある者に対する復活の保証、永遠の命の保証となられたと言われている。しかし私たちの現実生活は苦難と悲しみに満ちているのはなぜであろうか」と言う問いが発せられる。これに対してパウロは「ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます」と語る。キリストは復活して初穂となり、それによってキリストを信じる者も復活にあずかる保証となられた。そのことが実現するのは、キリストが再びおいで下さる再臨の時である。それ故パウロは「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます(ロマ 8:23)」と述べている。約束を望みながら、今日の日を忠実に歩もう。
2015/5/16(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ12:4-7 賛美 新聖歌 311
キリスト者の生涯はすべてが平穏無事に進むというわけではない。予期せぬ災害や戦争、迫害などによって身が危険にさらされる時もある。そのような時に私たちは、神様はどこにおられるのか、神様はわたしのことを忘れてしまわれたのではないかと疑いを持ってしまう。しかし主は取るに足りない値段で売られる雀さえもお忘れになるようなことはないと言われている。そのお方はわたしたちの「髪の毛までも一本残らず数えられている」お方である。そのお方が「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」と言われる。確かに神はすべてを御手に収め、支配しておられる。故に、死に至らせるような危険をもって迫るものは確かに恐ろしいが、それを恐れる必要はない。彼らは、体を殺すことはできても、その後、それ以上何もできないからである。真に恐れるべきお方は、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方・神様である。”,,893″
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