2015/5/18-23
- 2015.05.18
- ディボーションの友
2015/5/18 (月) 担当 高谷清師 ?コリ5:23-26 賛美 新聖歌 315
世の終わりの時には、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されると記されている。神がご自分の権威によって定められており、御子さえもお知りになっていない世の終わりの時、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されるのである。ここで言う「すべての支配、すべての権威や勢力」とは、すべての悪の力である。悪の力の究極は「死」である。実に、死はアダムの罪によって人類の上に支配権を持って以来、すべての人を支配してきた。不老不死は全人類の悲願であった。しかし、人間的な意味における如何なる権力者も、知者も、義人も、その支配を免れ得なかった。死はすべてを絶望の淵に投げ込むのである。この死に、キリストは復活において勝利し、終わりの時に滅ぼされるのである。それ故主は、弟子たちとの決別の時「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハ 16:33)」と語られたのである。勝利の主を見上げ、永遠の勝利を望んで歩もう。
2015/5/19(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下34:1-7 賛美 新聖歌372
ヒゼキヤとならんで主の目にかなう正しい王、ヨシヤの時代について書かれている。八歳で王となったヨシヤの治世の八年目から、彼は神を求め始めた。そしてその四年後、つまりヨシヤが成人した二十歳に時に、彼は改革を始めた。かつてのヒゼキヤのように、ヨシヤは高台や偶像を取り除き、清めた。しかし、ヒゼキヤ以上に徹底的であった。ヨシヤはそれらを取り除いただけではなく、粉々に砕いた。さらに、その改革は北王国の範囲にも及んだ。この時の改革では北に住む人々を祭に招くだけではなく、実際に北の地方にまで出かけていき、偶像を打ち砕いていったのである。
ヨシヤは徹底的な改革を断行した。それはある一時的な思い付きやひらめきによって即座に着手されたものではなかった。この改革が実行されるまでの4年間、ヨシヤは神を求め続けて来たのであった。祈りが積まれ、御心が示され、それに対して十分な信仰があってこそ、徹底的な服従が得られるのである。
2015/5/20(水) 担当 高谷清師 ?コリ15:24-28 賛美 新聖歌 468
最後の敵である死が滅ぼされたときキリストは父である神に国を引き渡される。その時には父なる神が御子に課された使命―完全な贖いの御業―が完成されるからである。この時点でキリストの王国は神の永遠の王国と一体となるのである。それによって、神がすべてにおいてすべてとなられるのである。パウロが「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン(ロマ 11:36)」と述べているとおりである。この時にヨハネが描いている神の国「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。(黙 22:3-5)」が実現する。これは聖徒たちの最終的希望である。
2015/5/21(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下34:8-21 賛美 新聖歌205
神殿が清められたら次は神殿の修理であった。かつての時代と同様に献金によってこの修理がなされた。そしてこの神殿修理作業中に律法の書が発見された。これは列王記の状況とは異なる。列王記では確かに修理中に律法の書が発見されたが、この時から本当の意味での改革が始まったのである。それに対して歴代誌ではヨシヤの治世の八年目に既にヨシヤが神を求め始めており、その結果改革がなされ、神殿が修理されてこの書物が見つかったのである。まさに神を求め続けていたヨシヤに、その答えとして開示されたのが律法の書であり、神の言葉であった。主は求める者にご自身を顕してくださるのである(歴上28:9)。
神を求め続けることに疲れてしまうことがあるかもしれない。しかし、私たちが求めるならば、神はご自身を顕してくださるのである。
2015/5/22(金) 担当 高谷清師 ?コリ15:29-32 賛美 新聖歌 122
この箇所でパウロは「もし、死者が復活しないとしたら」と言って、復活を否定するとしたら、キリスト者の業のすべてが空しくなることを示す。バプテスマは罪に死んだ人がキリストにあって甦ることをあらわす。しかし、死者が復活しないならキリストも復活しなかったのであり、バプテスマは空しい。この時代、信仰に生きることは日々危険を伴うことであった。死者が復活しないならキリストも復活しなかったのであり、危険を伴う信仰者の生活は無意味である。パウロの宣教には常に熾烈な戦いが伴った。死者が復活しないならキリストも復活しなかったのであり、パウロの戦いは無意味である。キリストの復活を信じる信仰はすべてのクリスチャンの業を有意義なものとする基盤である。
2015/5/23(土) 担当 高谷由紀子師 Iコリント1:18-2 賛美 新聖歌 359
古来人間は、洋の東西を問わず、神と救いを探し求めてきました。そしてたくさんの知者・賢者を輩出してきました。しかし神がご覧になる時、それらのどれも人を救いに至らせるものではなく、人に永遠の命を得させるものでもありませんでした。
神はご自身の愛の故に、人に救いを得させるために罪のないご自分の独り子を遣わし、このお方に人のすべての罪を負わせて十字架につけることによって人を罪から解放し、救いを得させる道を開かれました。このイエスを救い主と信じる者に救いが与えられるのです。これは世の知者や賢者には愚かに映るのです。しかしこれこそ神の知恵であり、私たちの救いの唯一の道です。”,,1172″
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