2015/7/13-18

2015/7/13 (月) 担当 高谷清師  ?コリ16:15-18  賛美 新聖歌 391
 コリントの教会の中にある問題に心を痛め、質問状を携え、パウロのもとを訪れたのはステファナ、フォルトナト、アカイコであった。それに対する答えとして本書簡を認めたのである。ステファナの一家についてパウロは、「アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました」と語っている。この箇所を新改訳聖書は「聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました」と訳している。小畑進は、『この「奉仕」とは執事に通ずる言葉で、一家は私設執事団として、諸聖徒のために労したのです。この「指導者たらんとせず、目立とうとせずして、ひたすら低き奉仕につとめた」ステパナ一家』と記し、続けて「教会は、花形スターをもてはやし、肩書きや地位に恐縮しているうちに、空疎となって、足元を危くします。真に教会を支えているのは、ステパナ的な奉仕に徹している無名で地味な人達です」と述べている(コリント人への手紙第一提唱P766いのちのことば社)。
 良き教会形成がなされている教会を見ると、牧師の働きもさることながら、その根底に、教会に自分を捨て、ただ黙々と仕え、教会の礎となる聖徒がおられるのを見る。開拓教会の成否は牧師の能力もさることながら、このような聖徒の存在にかかっているのを見る。彼らは地味で表舞台に立つことは少ない。しかし私たちはこのような聖徒を重んじるべきである。

2015/7/14(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書2:1-5 賛美 新聖歌238
 イザヤは将来についての幻を伝えている。それは主の神殿の山、シオンと呼ばれるエルサレムについての幻である。イスラエルにとってエルサレム神殿は神の臨在の場所であり、礼拝の場所であった。このエルサレムこそがほかのどの場所よりも高くあげられる。そして人々はふもとからそれを見上げるだけではなく、そこに登ってくる。その場所で主に出会い、主の導きを得るためである。そこにこそ主の言葉があり、教えと導きがある。その主の山を中心にして平和が打ち立てられる。これは主によってなされる業である。そして民がなすべきことは主の光の中を歩むことである
 終わりの日に平和が与えられる。それは神の主導によりその御業によって与えられる。そして人々は正しい方法でそれに参与して行く。それは自ら武器を取って自分の考えに従って戦うことではなく、主が示された道を歩むことである。今日も主の道を歩み続けよう。

2015/7/15(水) 担当 高谷清師 ?コリ16:15-18  賛美 新聖歌 266
 更にフォルトナトとアカイコについて、宮平望師は「奴隷や解放奴隷と思われるフォルトナトとアカイコという名前を持つこの二人はステファナの家の教会の構成員だった可能性があるだろう」と述べておられる。(コリント人への手紙私訳と解説P287)。彼らは社会的身分の低い人々であった。しかしパウロは「この人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください」と言い、「このような人たちを重んじてください」と語っている。人は社会的地位、身分の高い人、財力のある人を重んじ、地位、身分の低い人、財力の無い人を軽んじがちである。しかし聖書は「人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。(詩 62:10)」と語っている。またパウロは「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです(ロマ 14:4)」と述べている。私たちはいかなる人も軽んじてはならない。彼らを造られたのは神であり、神が彼らを愛しておられるからである。

2015/7/16(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書2:6-23 賛美 新聖歌340
 さて、光の中を歩むべきヤコブの家はどうなっていただろうか。今日の箇所を読むと何度も「高さ」について語られていることに気付く。高くあげられるべきお方は誰か。それはただ主おひとりである。しかし現実にはあらゆる国の民が我こそはと競うように誇り、高ぶり、自らを神の座に着こうとしている。財産や軍事力を蓄えることによって、また偶像を傷むことによって、また傲慢になることによって人々は高く昇ろうとする。しかし神は人のあらゆる「高さ」を打ち砕かれる。そして主のみが高くあげられるのである。
 例にもれず自らも高くなろうとしていたヤコブに対して、また高ぶっている周辺諸国に頼ろうとしていたヤコブに対して主は警告された。彼らに頼るのを止めよと。私たちは誰を頼りにし、何に信頼を置いているだろうか。自らに信頼を置くのでもなく、他の権力を持つ人々や国々に頼るのでもなく、真に力ある方、高くあげられる方である主を見上げよう。

2015/7/17(金) 担当 高谷清師  ?コリ16:19-20  賛美 心の中デメロデイを?26
 アジア州の諸教会、アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、エフェソの教会のすべての兄弟―アジア州にあるすべての教会と聖徒たちからコリントの聖徒たちへの挨拶の言葉が記されている。この箇所について小畑進は「今日では想像もできない寂しい状況の中で、各地に孤立しては、ともすれば行き悩むあちこちのキリスト者の群れは、互いに呼びかけ合い、連帯意識の絆を結び合い、それをたぐって励まし合う必要がありました。にもかかわらず、自ら独立を叫び腐敗・独善の道に傾斜しようとするコリント人に対して、彼らとは反対に使徒を中心として一致結束、共に精進しつつあったアジヤ諸教会からの挨拶が贈られるのです。」(コリント人への手紙第一提唱P772いのちのことば社)と述べている。先日、ある町のリバイバルのDVDを見せていただいた。同じ町にありながら各派に分かれて対立と争いを繰り返していた教会が、聖霊が注がれたことにより互いに認め合い、補い合い、祈り合うものとされ、一致へと導かれ、大いなる主の御業を拝したのであった。日本においてキリスト者は少数である。にもかかわらず、各派に分かれて対立と争いを繰り返しているのは悲しいことである。御霊による一致が与えられ、主の御業を拝するときを希求するのである。

2015/7/18(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ23:39-43 新聖歌32
 イエスが十字架に架かられたとき、イエスと一緒に二人犯罪人が、一人は右に、もう一人は左に十字架に架けられていました。そのうちの一人は自分の罪を悔い改めることをせず、議員たちと同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とイエスを罵っていました。これに対してもう一人の犯罪人が「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」とたしなめ、更に「この方は何も悪いことをしていない。」と言い、イエスに向かって「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。それに対してイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この記事は、私たちが御国に受け入れられるために求められるのは信仰であることがわかります。パウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです(ロマ 1:17)」と述べています。信仰によって歩みましょう。”,,1292″