2015/10/19-24
- 2015.10.19
- ディボーションの友
2015/10/19 (月) 担当 高谷清師 ?ペテ2:4-6 賛美 聖歌 273
私たちが霊的な家に造り上げられるためには、私たちの信仰が観念的で固定したものではなく、命に溢れたものであることが必要である。主は「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハ 14: 6)と語っておられる。命はキリストご自身である。そして『祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」』(ヨハ 7:37-38)と記されている。私たちが「生きた石」となるのは、主との絶えざる霊的交わりによるのである。それは御言葉と祈りによる。忙しい現代生活に在っても、日々御言葉に親しみ、祈りの時を欠かさない様に心がけよう。
2015/10/20(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書11:11-16 賛美 新聖歌359
神の御心にかなう、平和と正義の王が与えられる時に実現する救いについて語られている。この時に至るまでに、ユダとイスラエルは裁きを経験する。しかし、神の裁きを受けて荒廃し、散らされた民はそれだけでは終わらない。その後に主が民を回復される。そしてユダとイスラエルの民だけではなく、世界の民の旗印となり、あらゆる場所から人々が主のもとへ帰ってくる。ユダとイスラエルの王国を取り巻いていた四方八方の敵までもが治められる。かつてイスラエルが奴隷の地エジプトから神の手によって救われたように、来るべき時にはアッシリアから救われ、エジプトから逃れの道が備えられたように、再びアッシリアからの道が神によって整えられる。
この回復の希望は民の力によるのではなく、神が与えてくださる油注がれた者によってもたらされ、神が御業を行ってくださる。私たち自身も神に不従順であったために神と共に歩む喜びを感じられない時がある。そのような状態から私たちを神との交わりに回復してくださるのは神の憐れみ深い御業によるのである。
2015/10/21(水) 担当 高谷清師 ?ペテ2:4-6 賛美 新聖歌 154
「霊の」という言葉についてウェイン・A・グルーデム師は『 「霊の」は、「家」や「いけにえ」に適用された場合、「非物質的な」を意味せず(というのは信者たちは「非物質的な」人物ではない)、むしろ「聖霊に影響もしくは支配された、聖霊のご性格にあずかる」を意味する』(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P109いのちのことば社)と述べておられる。霊的な家、教会は聖霊の影響力と力のもとにある、神の国である。パウロは「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エペ 4:16)と述べている。互いを結び合わさる力は愛である。それ故に私たちはキリストを愛するとともに兄弟姉妹を愛することが大切である。主は「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタ 22:37-40)と語っておられる。キリストの愛に満たされ、神を愛し、兄弟姉妹を愛する者となろう。
2015/10/22(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書12:1-6 賛美 新聖歌166
アッシリアからの新たな脱出を経験する民の神への応答としての感謝の応答が賛美となってあふれ出ている。感謝をささげる真っただ中で民はかつて神の怒りを受けたことを忘れてしまったわけではない(12:1)。かつて神に対して罪を犯したために神の怒りを受けて全く無力であった民が、神によって救われた。神こそが本当の意味で民自身の力であり、救いであることを経験した。この救いを経験した者は賛美をささげずにはいられないのである。感謝が内からあふれ出るのである。そしてその賛美は世界中に響き渡り、その賛美を通して神の御名が諸国に告げ知らされる。救いを受けた者の感謝の賛美を通して神の御名が世界中に示され、神の威厳と栄光が知らされていく。
日々神の素晴らしい救いの恵みを思い起こそう。そして日々感謝の声を高らかに上げ、主の御名が私たちを通して示される歩みを続けていきたい。
2015/10/23(金) 担当 高谷清師 ?ペテ2:4-6 賛美 新聖歌 316
ぺトロは「聖なる祭司となって」と語る。祭司は神によって立てられ、神と人との仲立ちをする者である。旧約の時代には神によって立てられた祭司が犠牲の動物の血を携えて聖所に入り、祭壇に血を注いで贖罪の儀式を行った。しかし、主が十字架の上で息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。即ち、イエスキリストをとおして誰でも神のもとに行くことが出来る道が開かれたのである。主は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハ 6:37)と語っておられる。キリストの贖いの血潮を通して全ての人が神の前に出ることが出来るのである。それ故、ヘブライ人への手紙の著者は「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブ 4:16)と語っている。信仰によって日々神に近く歩もう。
2015/10/24(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ12:13-17 賛美 新聖歌391
ファリサイ派やヘロデ派の数人がイエスは真実な方であると述べた上で、イエスを罠にかけるために、税金について「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」(12:14)と質問をしました。これに対してイエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(12:14)と、知恵ある答えをされました。これを聞いた時、私たちは忠誠を尽くすべきものの優先順位を考えさせられます。私たちは第一に神に対して忠誠を尽くすべきです。同時に、私たちは地上に生きる者として、この世に対して果たすべき責務を負っています。地上の一市民として、自分が属する国や社会の権威や規則に従わなければなりません。
私たちはあらゆる状況の中で何に仕えるべきかを考え、それが神の御心にかなうことであるかを確かめつつ知恵を用いて従うべきものに従っていきましょう。”,,1028″
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