2015/11/9-14
- 2015.11.09
- ディボーションの友
2015/11/9 (月) 担当 高谷清師 ?ペテ2: 7-8 賛美 聖歌273
一方、信じない者たちについてぺトロは主イエスについて、イザ 8:14を引照して『「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。』と述べる。また聖霊が彼にとどまっておられ、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていたシメオンは、献児式のために両親に抱かれて神殿に来られた主イエスを見て「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ 2:29-32)と神をたたえて、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」(ルカ 2:34)と語っている。またパウロは「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(?コリ1:23-24)と述べている。信じない者にとってキリストは「つまずきの石、/妨げの岩」なのであって、人は誰もキリストと無関係であることはできない。信仰により、救いの道、永遠の命の道を歩もう。
2015/11/10(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書14:24-27 賛美 新聖歌325
バビロンに対する長い言葉の後に、それに比べてはるかに短いアッシリアに対するさばきの言葉が述べられる。イザヤ書7章から記されていた時代の背景にあって民を苦しめる大国となったのはアッシリアである。また、36章から38章にわたってヒゼキヤの時代の出来事が記されているが、このときユダを脅かしたのもアッシリアであった。それほど神の民の脅威となった国に対する言葉がこれほど短いことに驚く。しかしアッシリアに対するさばきは核心をついている。神はご自身の領土でアッシリアを滅ぼすといわれる(14:25)。ヒゼキヤの時代にユダに攻め込んできたアッシリアがいとも簡単に敗走していったことを思い起こす。
神の御計画はその宣言文の長さにかかわらず、力があるのだ。そして力ある神の御心は成就する。この全世界に対する御計画を定められて成就された神が今も生きて働いておられるのである。
2015/11/11(水) 担当 高谷清師 ?ペテ2: 9-10 賛美 新聖歌 434
ぺトロは信じる者について「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」と述べる。そして「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」と語る。これについてウェイン・A・グルーデムは「私たちを贖う神の目的は、単に私たち自身の喜びのためではなく、ペテロが「あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と指摘しているように、私たちが神をあがめるためである。私たち自身の永遠の幸せを求めることは、正しいことではあるが、決して人生に真の満足を与える終着点に到達するものではない。究極的な意味を求めるわれわれの探求への回答は、神の「卓越性を宣ベ伝えること」にある。なぜなら神だけが無限に栄光に値する方であるからである。贖いは究極的には人間中心ではなく神中心である。神のすばらしいみわざを「宣べ伝える」とは、神の存在およびなされたみわざのすべてを諮ることである。(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P124いのちのことば社)」と述べておられる。与えられた恵みを自分だけのものとしてはならない。
神を賛美し、恵みを証しし、神の栄光を顕す歩みをしょう。
2015/11/12(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書14:28-32 賛美 新聖歌337
ユダの隣国であったペリシテはアハズ王が死んだ時に自分たちの力を取り戻す好機だと感じたであろう。常に隣国と力を競い、より強いものが力を得て支配するという当時の世界では、一国の王の死は周辺諸国にとっては支配拡張の好機として歓迎された。しかし神はペリシテに対して喜ぶことを禁じられる。アハズが死んだとしてもさらに力を持つ者が出ると語られる。またペリシテを苦しめるものが他のところからも起こされるという。やはり神に従わない民に平和は約束されない。それとは対照的に安全と平安を見出せる場所が最後に語られる。それはシオン、すなわちエルサレムである。当時の世界の力関係を分析するならば民が身を寄せて安らぐ場所はシオンではなく、アッシリアだと考えるのが自然だが、やはり平安は神の守りのあるところに見出されるのである。
自分たちの力の及ばない強いものに囲まれるとき、私たちは平安を見出すことができず、どこにも安らぎなど得られないと考える。しかしあらゆる状況の背後におられる全地の主は力ある方であり、主を信じる者と共にいてくださるのである。
2015/11/13(金) 担当 高谷清師 詩 6:1-4 賛美 新聖歌 449
この詩を詠んだときダビデは試練に遭って嘆き悲しみ、その魂は恐れおののいていました。そのような中に在って彼は主に憐れみと癒しを求めています。これについってカルヴァンは「おそらくダビデは人間の手によって禍を蒙ったに違いないが、しかも彼は賢明にもそれが神からであると考える。なぜなら、直ちに己れの罪を思い、神がその咎のゆえに怒っておられることを感得しない人間は、彼らが蒙る悪からさえ、ほんの僅かしか益を得ることがないからである。それにもかかわらず、われわれはすべての人間が、この点において、おおかた愚鈍であることを知っている。自分の惨めさを叫び立てることはあっても、己れを打ちたたく手を顧みる者は、百人にひとりあるかないかである。それゆえに、われわれが忍ばなければならないもろもろの悪が、どこから生じているにせよ、われわれの思いを直ちに神に結びつけ、神を裁き主として認めることを学ぼうではないか」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P639新教出版社)と述べている。小畑進は『「病床は灰色の牢獄」とは誰のことばでしたか。しかしその病床六尺を膜想、祈祷、告白の密室とし、哲学・神学の教室とする者は、幸いなるかな、です。病に倒れて、狂気せず、静かに、これは何のため、と考えて、主なる神の御意をたずねれば、おのれの罪に思いいたって、あわれみを求める。この追跡こそあらまほしきものです。』(詩篇講録上P70)と述べている。私たちが試練に遭うとき、いたずらに自分の不遇を嘆くのではなく、それを通して主の懐に立ち返り、聖霊の光の中で自分を吟味し、悔い改め、神との正しい関係に立ち返りたい。パウロは「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」(ロマ 2:4)と述べている。
2015/11/14(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ1:29-31 賛美 新聖歌427
シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネはイエスに召されて弟子として仕えていました。主はシモンとアンデレの家に行かれました。そのときシモンの姑が床にふしているのを見て主は彼女を癒してくださいました。この記事を読むとき、主に従う者に対して主は憐れみと恵みをもって導いてくださることがわかります。そしてその憐れみは従う者の家族にも示されるのです。パウロが「「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」といった言葉の確かなことがわかります。”,,1083″
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