2017/4/3-8

2017/4/3(月) 担当 高谷清師  ヨハネ2:13-22 賛美 新聖歌 38
 イエスが神殿から商人達を追い出された時、彼らのだれ一人、イエスに、力によって抵抗したとは記されていない。イエスの行為に対してユダヤ人たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。これについてカルヴァンは「かれらには次の原則があったからだ。神からのなんらかの召命と委託があるのでなければ、公けのきまりにおいて、なにかをかえることはただしくない、と。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書新教出版社1967上P75)と述べている。イエスは祭司でもレビ人でもなかった。しかし、もしユダヤ人たちの目が開かれていたなら、イエスを認めることが出来たはずである。罪に覆われた世はイエスを平凡なただの人としか認められなかったのである。それ故にユダヤ人たちはイエスにしるしを求めたのである。弟子たちの証言を聞きながらイエスの復活を信じなかったトマスに対しご自身をあらわされた主は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハ 20:29)と教えておられる。信じない者ではなく、信じる者になろう。

2017/4/4(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書1:10  賛美 新聖歌302
 神はエレミヤと共にいるという約束をもって彼を召された。そして神のことばを語る者としてエレミヤを遣わすにあたり、どのような権威を与えられるのかを明確に示された。それは人々が期待するような、全く苦労や痛みを伴うことのない降伏と回復のメッセージではなかった。「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるため(1:10)」の権威である。これはエレミヤ書において繰り返し出てくる言葉である(12:14-17, 18:7-10, 24:4-7, 31:4, 31:40, 33:7, 42:9-11, 45:4)。神に従わない者は、たとえ神の民であっても正しい関係に回復されるためには痛みの伴う懲らしめを受けなければならない。そして、エレミヤは人々から『預言者』に期待される甘い言葉だけではなく、責任をもって『真の預言者』として同胞に対して厳しいメッセージも語らなければならなかった。
 神に選ばれた僕が、信徒に対して喜ばしくないメッセージを語ることもある。その時に「これは聞きたくない、嬉しくない内容だから神からのメッセージではない」と拒否することがないよう、心して選ばれた者が神から与えられた権威を認め、神のことばを聞き、その言葉によって正され、導かれ、主と共に歩もう。

2017/4/5(水) 担当 高谷清師  ヨハ 2:13-22 賛美 新聖歌 40
 ユダヤ人たちが「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言ったのに対しイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と答えられた。著者は「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」と記している。弟子たちがイエスの言葉を信じたのはイエスが死から復活された後のことであった。イエスの献児式に際し語られたシメオンやアンナの言葉をマリアは「心に納めていた」のである。私たちに与えられる神のことばは、その時直ちに理解することはできないかもしれない。直ちに理解することが出来ないからと言ってそれを棄ててしまってはならない。聖霊は最もふさわしい時、その御言葉を思い起こさせ、理解させてくださるからである。神のことばはその時理解できないとしても一言一句大切に心に納めよう。

2017/4/6(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書1:11-13  賛美 新聖歌317
 二つの幻を通して迫り来る神の裁きについて語られている。春一番に花が咲くアーモンドの木の語呂合わせを用いて、神ご自身が見張っていると言われる。この段階では神が何のために見張っておられるのか分からない。続けて北から向かってくる煮えたぎる鍋の幻が示される。具体的な国名は述べられていないが、北の人々がエルサレムとユダのすべての町に襲いかかるという。その理由は神ご自身の民が犯した甚だしい悪である。具体的には十戒で禁じられている偶像礼拝の故であるという。召命に続いてエレミヤには民に語るべきメッセージが喜びと励ましではなく、民の罪に対する裁きであり、人々には受け入れがたいものであることが示される。
 神を信じている人々は、神からの言葉が与えられる時に自分に利すること、喜ばしいことを期待する。今日の預言ブームでも多くの人々が祝福の言葉を期待する傾向がある。しかし必ずしもそうでないかもしれない。神は御自分と私たちとの関係を正しくするための言葉を語られるのである。

2017/4/7(金) 担当 高谷清師  詩編31: 7-9 賛美 新聖歌 209
 苦難の中に在って祈り、主の臨在に触れ、喜びに満たされたダビデは、更に祈り続ける。隠された網に落ち、苦難に遭遇したダビデに対する、彼を取り巻く人々の態度について訴える。敵は皆ダビデを嘲り、隣人も激しく嘲る。親しい人々はダビデを見て恐れを抱き、外で会えば避けて通る。人の心はダビデを死者のように葬り去り、壊れた器と見なす。ひそかな声が周囲に聞こえ、脅かすものが取り囲んでいる。人々はダビデに対して陰謀をめぐらし、命を奪おうとたくらんでいる。
順風の時には多くの人々が群がりもてはやすが、一度逆境に陥り試練に遭遇すると手のひらを返して離れ去り、陰謀をめぐらして葬り去ろうとするのが世の常である。それによって孤立に追い込まれ、生きる力を奪われるのである。現今マスコミを賑わしている内外のニュースにも同じ姿を見る。しかし、神はそうではない。苦しむ者と共に居てその訴えに耳を傾け、その悩み苦しみを受け入れ祈り、訴える者に平安を与えてくださる。
時の満ちるに及んで神は独り子を遣わし、罪なき御子を十字架につけ、わたしたちの罪を取り除き、赦しを与え、平安を満たしてくださった。主の血の力は今も働き続けている。苦しむ人々、十字架を仰いで生きよう。

2017/4/8(土) 担当 高谷由紀子師  ルカ19:1-10 新聖歌176
 ザアカイは徴税人でした。当時のユダヤ人はローマの支配下にあったため、徴税人はローマのために同胞のイスラエル人から税を徴収する結果となり、同胞の反感を買いました。加えて徴税人の中には、ローマ政府から課せられた以上の金額を徴収して私腹を肥やす者もあり、同胞の憎しみの的にもなっていたのです。それゆえ、ザアカイの生活は裕福ではあったが、孤独で寂しいものでした。そんな時、通りがかりの主イエスに声をかけられ、主は孤独なザアカイの友となってくださいました。その交わりの中で、愛を受けてザアカイが変えられ、悔い改めに導かれました。
 主は徴税人は罪びと、すなわち世から軽蔑され、捨てられた人々を招き、救われるお方です。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と言われているとおりです。”,,749″