2017/7/24-29
- 2017.07.24
- ディボーションの友
2017/7/24(月) 担当 高谷清師 ヨハネ5:10-18 賛美 新聖歌 441
三十八年も病気で苦しみ、人々から見捨てられ、絶望の中に在って「ベトザタ」と呼ばれる池の回廊に身を横たえていた人に主は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と語りかけ、癒された。その後、神殿の境内でこの人に出会われた主は「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」と話された。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。」と話された主の言葉について、カルヴァンは「ひとびとの悲惨と災厄は、ただあてもなく生ずるものではないからである。それは、わたしたちを罰するさまざまなむちなのだ。だから、わたしたちは第一に、自分をうちたたく神の手を認めて、自分の不幸に運命の盲目的な狂乱を想定したりしてはならない。ついで、神に崇敬の思いをささげて、神は、大いなる善意にみちた父であり、わたしたちの悲惨をよろこぶ者ではないのだから、わたしたちをかれがきびしく扱うのは、わたしたちの罪に心を傷つけられているからにほかならない、と考えなければならない。キリストがこの男に、もう罪を犯さないようにするがよいと命じている時、かれはなにもその男に、どんな罪もないようになることを要求しているのではない。ただかれの過去の生活をひき合いに出しているのである。それというのも、キリストはかれに、今後自分をあらためて、もう過去のようには振舞わないことをすすめているのだからである。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書上新教出版社1967P159-160)。私たちの歩みの中に起こる出来事の中に、神の御心を聞くことは大切である。
2017/7/25(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書6:16-21 賛美 新聖歌427
主は再びエレミヤを通してイスラエルに真理を求め、「神の声に耳を傾けよ」と呼びかける。しかし心が頑なな民は決して主の言葉に耳を傾けず、教えを聞こうとはしない。規定に従って犠牲をささげても、神に聞くことをしない人々が捧げるものは受け入れられないのである。いけにえは人が神に近づくための通行税ではない。いけにえは人が神の心を動かして有利に事を運ぼうとする交渉のための賄賂でもない。
形式的には神の御前に進みゆく人々の敬虔な姿を満たしていても、心では神を拒み、耳を傾けることもない人々を神は受け入れられない。形式をもって神に近づくものではなく、心を開いて神のことばを聞き、受け入れて従う人を神は求めておられるのである。
2017/7/26(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 5:10-18 賛美 新聖歌 449
続く「さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」という言葉についてカルヴァンは「神がそのむちと懲罰によって、まるできわめて人間味のある父親が,幼くかよわい子供たちを罰する時のように、やさしくわたしたちを罰しでも、なんの役にも立たない時には、神も、いわゆるあらたな人物を演じて、いわばかれの本性ではない別のやりかたで、振舞わざるを得なくなるのである。だから、かれは大むちをとり、わたしたちのかたくなな反抗心を制御しようとする。(中略)懲罰の用途は、わたしたちが将来において、さらに思慮に富むようになることを目ざすものである。だから、第一第二の打撃ののちにも、なおわたしたちが強情に心のかたくなさのうちに生きつづける時には、神は七倍もきびしくうちたたくだろう。また、ほんのしばらく悔悟のしるしを示しても、すぐにまた本性にたち戻るなら、神は、わたしたちのうちに認めるきわめてだらしのない、思知らずなこの軽薄さを、さらにきびしく罰するだろう」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書上新教出版社1967P160)と述べている。また、パウロは「信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。」(?テモ1:19-20)と述べている。神は善にして愛のお方である。神の懲らしめの目的は私たちの救いのためである。いかなる時にも神に立ち帰ろう。
2017/7/27(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書6:22-30 賛美 新聖歌339
再三語られてきた「北からの敵」が具体的にエルサレムを包囲し破壊しようとする、北からやってくる一つの民として述べられる。残酷で容赦ない武力攻撃を仕掛ける敵から逃れる術はもうエルサレムには残されていない。何度も立ち帰りを呼びかけられた神の声を拒んだ民の姿はこのような滅びであった。この民は神の吟味に耐え得なかった。最後まで神を信頼しなかった民は「銀の滓」(6:30)と呼ばれる。
神を信じて歩んでいながら神のことばを拒む人にも神は何度も立ち帰るように呼びかけ、関係を回復しようとされる。しかしこの呼びかけは、これを聞いても拒み続ける人々にも永遠に提供されているわけではない。心を頑なにせず、常にへりくだって神を求める心で主の呼びかけに応じよう。
17/7/28(金) 担当 高谷清師 詩編33:13-15 賛美 新聖歌 449
ダビデは「主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる。」と詠う。ソロモンは「あなたはお住まいである天にいまして耳を傾け、罪を赦し、こたえてください。あなたは人の心をご存じですから、どの人にもその人の歩んできたすべての道に従って報いてください。まことにあなただけがすべての人の心をご存じです。」(?列 8:39)と述べている。そして主は「心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。」(エレ17:10)と語っておられる。まことに、造り主なる主は人の心のすべてを知っておられる。それ故、パウロは「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エペ 4:23-24)と勧める。主のみ前にすべてを告白し、血潮によって清めていただき、真実をもって御前に歩もう。
2017/7/29(土)担当 高谷由紀子師 ?コリ5:16-21 賛美 ほめよ80 新しく造られる民が
キリストの死と復活がキリスト者の土台です。キリストにあって罪に死に、キリストにあって義と認められて生きることは、神からもたらされたキリストにある新しい創造です。私たちはキリストの御業のゆえに罪から贖われて神と和解させていただきました。この愛に迫られて和解の任務を与えられたのです。パウロはこの重大な和解の福音を伝えるために召されている使命を自覚していたので、生涯を通してすべての人にこの「神と和解」させていただきなさい(20節)と語り、勧めました。
パウロと同様に神との和解を得ている私たちもこの恵みを日々の生活を通して証しましょう。”,,699″
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