2018/2/19-24

2018/2/19(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:19-23 賛美 新聖歌 238
 イエスは群集に対して「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」と言われる。5章にはユダヤ人たちがイエスに殺意を抱くようになった次第について、「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」(ヨハ 5:18)と記されている。ユダヤ人たちはイエスの律法違反を根拠に、イエスに対する殺意を抱いたのである。それに対してイエスは「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」と言われる。律法はイスラエルに生まれた男の子には八日目に割礼を施すことを命じており、一方、安息日に関しては「安息日を心に留め、これを聖別せよ。七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」と命じている。これに関連してラビたちは安息日であっても割礼を施すことを命じていたのである。それ故イエスは安息日であっても癒しの業を行うことの正しいことを語っておられるのである。

2018/2/20(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:10-12 賛美 新聖歌38
 ヨシヤ王はバビロンの手でユダが滅ぼされる約40年前のエルサレムにとって大きな望みであった。当時の王とは違って神を信じて、神に忠実に仕えて国内から偶像を取り除いたヨシヤ王の時代に、国は栄え、回復の兆しが見えた。その時突然エジプトとの戦いにおいてヨシヤ王が戦死した。この王に人々は一縷の望みをかけた。しかしエレミヤはその王のために泣くことを禁じ、ヨシヤに代わって立てられたシャルムに目を向けるように語る。しかし、このシャルムの治世は喜ばしいものにはならない。エジプトに連れ去れられたシャルムはそこで死ぬと語られる。
 最後の望みを託せる王が戦死して、次の王も捕囚とされた国民が求めていたのは神の守りの保証と励ましだった。神はそのことをご存知であったが、民が悔い改めて神に立ち帰らない限り、神がエレミヤを通して気休めに過ぎない空想の希望を語られることはない。神のことばは常に人々の信仰の本当の姿を示し、神との正しい関係に連れ帰るものである。私たちも本当の神のことばを聞き分け、従って行こう。

2018/2/21(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:24 賛美 新聖歌 399
 イエスは「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」と語っておられる。律法の専門家が「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と問うたのに対し、イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタ 22:37-40)と答えておられる。律法には様々な規定が事細かに定められている。それらすべては神と人への愛によって全うされなければならないのである。今日の一日を聖霊によって注がれた神の愛によって生き抜こう。

2018/2/22(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:13-19 賛美 新聖歌366
 シャルムに次いで王になるエホヤキムに対する言葉であろう。エホヤキムは外国の壮麗な宮殿に住む王たち同様に、自分のために立派な宮殿を建てた。この華美な建築物によって自分の力を誇示し、外国の強大な王たちと競おうとしたのであろうか。しかしこれに対して神は「災いだ」と語り、この大きな建築プロジェクトの陰で忘れ去られている貧しく、苦しむ者に目を留めておられる。神に選ばれた王のなすべきことは華美な生活を求めることではなく、貧しいものや社会的な弱者を保護することを通して正義と公正を保つことである。イスラエルの歴史を通じて預言者達が語り続けてきたことである。
 神の前で、神に仕えて生きるということは自分の快適な生活を追求し、荘厳な建物、華美な持ち物に囲まれて富を誇示することではない。むしろ弱者に心を留めて助けの手を差し伸べることによってあらゆるときに神の憐れみと愛を人々に分かち合うことである。今日も神と共に生きよう。

2018/2/23(金) 担当 高谷清師  詩 37:1-40 賛美 新聖歌 321
 今回から詩篇37編に入ります。この詩についてA. ヴァイザーは「神を信じない者たちの存在と〔傍若無人な〕ふるまいによって敬虔な者たちの心にさまざまの誘惑と葛藤が生じ、憤りや嫉み、貧窮や苦難、人間への恐れ、神の働きと義への疑い、道徳的服従への倦怠を彼らが覚えようとも、神への信頼と服従をつらぬくように、と。至るところで作者は、いかなる場合にも損なわれることのない、神への正しい信頼に導こうとしている。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P411ATD・NTD聖書註解刊行会1983)と述べている。更に「ここに窺われるのは、思慮深い円熟した姿と、数々の苦闘や経験を通して獲得され試された堅忍不抜の信仰であって、その信仰の力が簡潔で明噺な形にもられている。」(同書P412)と述べている。また、北森嘉蔵師は「三七篇は典型的な神信頼の詩で、その恵みの高さは山のごとくだというわけです。」(北森嘉蔵 詩編講話上P142教文館2004)と語っておられる。
 神が全能者であり、義なるお方であるなら神に従う者が繁栄を享受し、神に逆らう者、神を信じない者が苦難を受けることは信仰者の要請である。しかし、世の現実はそれとは逆である。この現実を前にして信仰者の心は揺らぐ。この詩篇はそのような現状の中にあってなお、神の真実を示している。信仰を強められ、最後まで神に従おう。

2018/2/24(土)担当 高谷由紀子師 マタ 16:13-17 賛美 新聖歌 490
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。あらためてイエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われるとシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。イエスはこの答えを喜び、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。パウロは「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(?コリ 12: 3b)と述べています。常に祈り、御霊の光の中で御言葉を聞きましょう。”,,628″