2019/2/25-3/2

2019/2/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12: 20-23 賛美 新聖歌 359

 祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは「信仰心あつく、神を畏れ」(使 13:43)る人々であったか、「神をあがめる改宗者」(使 13:43)であったであろう。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話した。フィリポはイエスが弟子たちを遣わされた時、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタ 10:5-6)と語られたことを思い出して躊躇したのであろう。二人はイエスのところに行って話した。それを聞かれたイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た。」と語られた。それはイエスの十字架の時が来たことを語られたのであり、イエスの十字架の死によって神の国が打ち立てられることを意味する。そしてこの神の国は全世界のすべての人々に及ぶのである。それ故、マタ 10:5-6において「異邦人の道に行ってはならない。」と語られた主は、贖いの御業を為し終えてよみがえられた時「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マコ 16:15-16)と命じられたのである。全世界のすべての人の救いは成就された。この福音をすべての人々に伝えよう。 
 
2019/2/26(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:59-63 賛美 新聖歌454
 ゼデキヤの治世第4年、当時のバビロンに対する反乱計画の釈明のためにおそらくバビロンに赴くことになったのであろう。バビロンから召喚されたのであれ、ゼデキヤ自身の判断で報告のために赴いたのであれ、この時のゼデキヤは非常に弱い立場にあっただろう。その時にエレミヤはセラヤに巻物を託し、バビロンに関する言葉を朗読させた。当時の国際情勢から言えばユダの立場はバビロンに対して全く弱く、力のない立場であった。しかし託されたメッセージの内容はバビロンが廃墟となるという驚くべきものであった。
 エレミヤはバビロンが自国民よりも強い立場にあるから、バビロンの気分を害するであろう神の言葉を宣言するのは控えようなどとは考えなかった。神の言葉は相手の立場や力関係にかかわらず、語るべき時に語られるべきものである。日和見主義になるのではなく、神の言葉を確信をもって語りたい。
 

2019/2/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12: 24-26 賛美 新聖歌 202

 イエスは「はっきり言っておく。」と言ってから語り始められる。これはイエスが重要な真理を語られる時、最初に話される言葉である。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と。寒さ厳しかった冬も終わりを迎え、春を迎えようとしている。3月は多くの作物の種まきの時期である。種は地面に撒かれ、土で覆われ、水を注がれる。するとやがて芽を出し、成長し、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。まかれた種自体は芽に養分を供給し、死に、朽ち果てる。イエスはすべての罪を担い、十字架に架かり、血を流し、死んでくださった。このイエスを神はよみがえらせ、栄光の座に着かせられたのである。このイエスに召された者はイエスに命を、すべてをささげる時、キリストにあるいのちの恵みに与るのである。パウロが「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ 6:3-4)と述べているとおりである。

 
2019/2/28(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:59-63 賛美 新聖歌325
 エレミヤは言葉によって神のメッセージを伝えただけではなく、時折、象徴的な行為によって神のメッセージを伝えた。この時のバビロンでの巻物の朗読も、言葉による告知だけではなく、朗読した後に巻物に石を結び付けてユーフラテス川に沈めるという象徴的行為も伴っていた。確かにバビロンが滅びるというこのメッセージを伝える一方、エレミヤは同胞に対してはバビロンに服従するように勧めていたが、単に矛盾した行為というものではなかった。当時、神はバビロンを裁きの杖として選び、ユダの民もそのもとに服することを良しとされていたが、同時に神は全世界を造られ、治め、働いておられる主として将来においてこのバビロンもまた神の支配のもとで滅ぼされることを確かに計画しておられた。
 歴史の一時点だけを見る人間の目からは辻褄が合わないことも、神の長い歴史を通した働きの中では一貫したご計画の中にあることを忘れず、今日この時を主の御心を求めつつ歩もう。
 
2019/3/1(金) 担当 高谷清師  詩 42:1 賛美 新聖歌 392
 詩編42編と43編は元々は一つの詩編であったと言うのが多くの研究者の一致した見方である。1節には【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】と記されている。「コラの子」について小畑進師は「彼らの家祖「コラ」はレビ人ケハテ族イツハルの家系でしたが(民数16:1)、祭司職が同族アロンの独占となったのをねたむと、ダタンやアビラムと共に大地に呑み込まれました(民数16:32)。いまわしい家祖となってしまったのです。もっとも、あわれみによって、その子らは生かされました。そればかりか、ダビデ朝になると、幕屋の門衛(I歴代9:1926:19)や、手なべの仕事(9:31)、パンの供え(9:32)などに用いられ、その一人ヘマンにいたっては、アサフ、エドトンと並ぶ大音楽家として、ダビデ朝の賛美をリードしました(I歴代6:3315:17)。もとは、不名誉な先祖をいただくコラの子孫の、この回復と栄誉とは、嬉しいことで、彼らの名を冠する詩も、この第二巻に八篇、次の第三巻に四篇と合計十二篇を残すという光栄に浴することをえました。なお、「コラ」とは〈霊〉の意味です。」(『詩篇講録上』いのちのことば社2007、P555)と記しておられる。ヨハネは「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハ 1:12-13)と述べている。神は、出自、学歴、等によらず、信仰に立って真実に仕える者を用いてくださる。
 
2019/3/2(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:19-21 賛美 聖歌 316

 ヤコブは「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」と語っています。「聞くのに早く」それは神の言葉であり、また相手の言葉です。それは私たちに神の義を知らせ、相手の真意を知らせるからです。また、人の怒りは神の義を実現しないのです。箴言は「柔らかな応答は憤りを静め/傷つける言葉は怒りをあおる。」(箴 15:1)と述べています。そしてヤコブは「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」と命じています。いつも神の言葉を聞き、受け入れ、神の言葉によって歩みましょう。