2018/3/12-17

2018/3/12(月) 担当 高谷清師 ヨハネ7:32-36 賛美 新聖歌 178
 31節には、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いたことが記されている。群衆がイエスについて「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」とささやいているのを耳にしたファリサイ派の人々は、祭司長たちと共に、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」と言われた。この言葉は、イエスの時――十字架の時――がまだ来ていない、しかし目前に迫っていることをあらわしている。イエスは神によって遣わされ、神のご計画――贖いの御業――を成し遂げた後神の許に帰られる。イエスが神の御許に帰られた後は、イエスを信じない者たちはイエスを捜しても、見つけることが出来ず、イエスの許に行くこともできない。
パウロは「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(?コリ6:1-2)と述べている。神のご計画のうちに人となられたイエスが地上を去られたように「恵みの時、救いの日」も閉じられる。その時まで固く信仰に立とう、御言葉を伝えよう。

2018/3/13(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:7-8 賛美 新聖歌19
 イスラエルの長い歴史の中で彼らを支えてきた救いの体験が出エジプトであった。奴隷の地での呻きを聞いた神が、指導者を送り、神の奇跡の業をもって当時の大国であったエジプトから導き出してくださった。これによって彼らは主こそが真の神であると知った。後ろから追ってくるエジプト軍を紅海で壊滅させ、その後の旅路で恵みを与えてくださった神を知った人々は、シナイ山で神に従うという契約を結び、神の民となり、何百年も歩み続けてきた。しかしエレミヤの時代に国を失い、神を信じる人々が契約に基づいて細々と民として生き延びている時代に、神はかつての大きな救いの経験以上のさらに大きな主の救いの御業を与えて彼らを導き上られるという。
 人々が希望の見出せない状況に陥り、そこから抜け出す方策もすべてなくなった時、彼らを救い出すことができるのはただ神だけである。そして神は神に従う者を決して見捨てられることはない。希望がなく行き詰まった時にこそ希望を与えてくださるのが私たちの神である。

2018/3/14(水) 担当 高谷清師 ヨハネ7:37-39 賛美 新聖歌 408
 ヨハネは『祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と記している。仮庵の祭りは八日間に亘って行われた。この祭りはユダヤの三大祭の一つであり、しかも一年の祭の最後の祭りであった。離散のユダヤ人をはじめ、多くの人々を集めて連日儀式が盛大に、秩序正しく、行われた。この祭りを企画し、執行した人々は何の落ち度もなく成し遂げた。それは申し分のないものであった。しかし、参加した人々の心には一抹の虚しさ、満たされない渇きがあった。イエスもこの祭りに参加しておられた。イエスは人々のこの渇きを見て大声で叫ばれたのである。イエスの心情は如何なるものであっただろうか。私たちの渇きを癒し、心を満たし、命に溢れさせ、愛と喜びと感謝の歩みに導くのは生きた水、聖霊の満たし以外に無いのである。

2018/3/15(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:9-12 賛美 新聖歌446
 続いて預言者達について記されている。神のことばを取り次ぐ指導者である彼らが主に忠実に仕えることを人々は期待する。しかし彼らについての主のことばを聞いたエレミヤは喜ぶのではなく、彼の心臓は破れ、骨は力を失う。エレミヤが預言者について聞いた現実とは姦淫が満ちているということであった。現実的な姦淫の罪であるかも知れないし、また偶像礼拝を指すのかもしれない。いずれにせよ彼らの間に蔓延する罪はとどまることなく、国中に広がり、国土や自然も破壊されるほど甚だしい。聖別されるべき神殿にさえ悪が満ちている。神殿は神の臨在の場所であり、真の神・主を礼拝する場所であった。その場所が姦淫その他の罪に満ちている。まさに心臓部が罪によって汚されている。さらにそれを主が宣言されている。当然それに対する報いは主から受ける罰である。
 罪を犯しても神の罰を受けない限り安心しきってはいないだろうか。罪を犯しても裁きを受けていないからと言って神が罪を許容しておられるわけではない。神は罪人が悔い改めて立ち帰るのを待っておられる。私たちの内に告白し悔い改めるべき罪があるなら、今主に告白し、赦しを得よう。

2018/3/16(金) 担当 高谷清師  詩37:5-6 賛美 新聖歌 394
 人生の成熟期を迎えた詩人が、悪事を謀る者や不正を行う者の理不尽な行いによって苦難の歩みを強いられた生涯の前半をふり返りつつ、「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」と詠う。苦難の日々にも、信仰によって自らの歩みを主に委ねる時、主は御心に従う者の歩みを導き、全うさせてくださる。更に、彼の真実な歩みは不正を行う者の塵芥に埋もれているとしても、時至れば主は彼の義を明らかにし、輝かせてくださるのである。主に信頼し、常に真実に歩もう。

2018/3/17(土)担当 高谷由紀子師 マコ14:3-9 賛美 新聖歌 391
 イエス様がべタニアの重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたときのことでした。突然、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけました。居合わせた人々の何人かが「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と言って彼女を厳しくとがめました。それに対してイエスは「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」言われました。この女は信仰によって行動し、愛と誠をもって仕えました。それがはからずもエスの葬りの備えになったのです。自らの損得勘定ではなく、愛と誠こそがイエスに仕える道なのです。”,,647″