2018/5/28-6/2

2018/5/28(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:25-30 賛美 新聖歌 202
 イエスは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということが分かるだろう。」と語られる。イエスの十字架刑執行の任務を担当した百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、イエスの死に至るまでのいろいろな出来事を見て「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マタ 27: 54)。即ち、イエスが『わたしはある』というお方であることが分かったのである。彼らはイエスの十字架を直視した人々であった。しかし自らの義に固執したユダヤ人たちは「三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」(マタ 27:64)と語っているように、イエスを「わたしはある」というお方であることを認めることが出来ない。ヨハネは「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(?ヨハ5:5)と述べている。純なる目をもって、純なる信仰をもって主イエスを見つめて歩もう。

2018/5/29(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書29:1-7 賛美 新聖歌343
 エレミヤは生涯バビロンに捕囚となることはなかった。本人の意思に反して最後にはエジプトに行くことになるが、基本的にユダの地で神の言葉を人々に伝えた。しかしエレミヤの言葉は捕囚の地に先に連行された人々のもとに手紙として届けられた。既に故郷から引き離されて失意と怖れの中にある人びとに対しても妥協せずに一貫した神の言葉を語っている。捕囚の地から劇的に解放されることを求めず、バビロンに住まうことを受け入れ、そこで生活を建て上げよと勧める。これは民の期待に沿うものではなかったが、同時に異教・異国の地においてもまだ神は彼らを全く捨て去られたのではないという驚くべき慰めの言葉でもあった。
 自分の意に沿わない状況に陥る時、私たちは神の愛を失ったと感じる。しかし、どこに行っても、何が起こっても、その中で神は信じて従い、神を敬う人々に未来を備えておられる。

2018/5/30(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:25-30 賛美 聖歌 273
 ヨハネは「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」と記している。この人々は、自らの指導者であり、イエスを認めずイエスを無き者にしょうとするファリサイ派の人々の前でイエスを信じたのである。パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ 10: 17)と述べている。そして「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロ 3: 16)と勧めている。私たちはこの国において、少数者であり、常に反対者に囲まれている。そのような中において、聖霊の助けと導きを求めつつ、御言葉を読み、聞き、宿っていただき、信仰を守り通そう。

2018/5/31(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書29:1-7 賛美 新聖歌190
 29:7は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)という主のことばが聞こえてくるような勧めである。捕囚民は自らの意志で移住したわけではない。武力を増したバビロンがエルサレムに侵入し、その住民を強制的に捕虜として連行したためにこの地に移された人びとであった。故郷から引き離された痛みとバビロンに対する敵意はどれほどのものであっただろう。この様な人間的感情に加えて、イスラエルの神、主がバビロンの神々に敗北したとか、自分たちは神に見捨てられたという失意と恐怖に包まれた人びとであった。彼らに対して憎むべきバビロンの平和を祈れとは驚くべき言葉である。
 民を救いへと導く過程は人びとの願いと神のご計画とを比べると大きな違いがある。感情的には憎んで当然の相手であっても、神はその敵の平安を祈れと言われる。本当の愛がなければできない。また、この言葉を通してユダから遠く離れた地でいけにえをささげる術もない場所であっても神は民の祈りを聞いておられることが示された。時間や場所を問わず、神は私たちが主の愛に基づいて愛を実践し、主に祈ることを求めておられる。その祈りは聞かれる。

2018/6/1(金) 担当 高谷清師  詩37:23-24 賛美 新聖歌 21
 ダビデは「主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「神は信仰者が清い良心をもって歩み、彼らに定められた道から外れることがないのを見られるので、見よ、彼らの企てるところを祝される」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P468新教出版社1970)と述べている。主イエスは山上の説教において「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタ 6: 3)と語っておられる。
私たちが常に神の国と神の義のみを求める時、神は私たちの前にその歩むべき道を備え、導いてくださるのである。神を信じていると言いながら、求めるものが自分の繁栄、自分の利得にすりかわる時、信仰の挫折を来す。パウロは「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。」(?テモ1:18-20)と述べている。

2018/6/2(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 10:17-20 賛美 新聖歌 346
 イエス様は七十二人を任命して御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされました(ルカ 10:1)。彼らはイエス様から、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、授けられていました。彼らは帰ってきて喜んで「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と報告しました。これに対してイエス様は「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言って、真に喜ぶべきものが何であるかを教えられました。イエス様の血潮によるあがないの恵みに与り、罪赦され、御国の民とされていることこそ、様々な賜物によって奇跡の業を行うことにまさって、真に喜ぶべきことなのです。”,,771″