2019/3/4-9
- 2019.03.04
- ディボーションの友
2019/3/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:24-26 賛美 新聖歌 394
イエスは「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と語られる。パウロは「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリ 3:8-11)と述べている。「キリストに従う」とは自分の肉の命に維持や幸福などに仕えるのではなく、それら一切を棄ててキリストの心を自分の心として生きることである。
2019/3/5(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書52:1-30 賛美 新聖歌449
51章の最後でエレミヤの言葉が終了したことを伝えた後に52章が置かれている。つまり、これはエレミヤの預言よりも後の時期に記された後日談である。ユダ王国の最後の王ゼデキヤは神の御前から投げ捨てられた。その原因は彼が主の目に悪とされることを行った、つまり、神に背き、御心に従わなかったからである。預言者の警告にも聞き従わず、罪を悔い改めなかった王とこの国はバビロンによって完全に破壊された。ユダの地の貧しい者たちだけは土地をそのまま残されてそこに住み続けた(52:16)が、彼らにとってはこれもまた厳しい現実であっただろう。一方、神殿の祭具や国の指導者たちは完全にその地から取り去られた。
罪を犯して神に喜ばれないことを行っていると知っていながら、「私は神の赦しを受けているから大丈夫」と心の内に言い訳をしながら神を侮り続けるなら、神はその罪を裁かれる。主の愛と赦しのうちに生きているわたしたちも、恵みを受けているからこそ主の愛にこたえて正しい歩みを求め、実践していこう。
2019/3/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:27 賛美 新聖歌 265
イエスは「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」と語っておられる。ゲッセマネの祈りにおいて主は「わたしは死ぬばかりに悲しい。」(マコ 14:34)「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」(マコ 14:36)と祈られた。それは真の人間としての、迫り来る死に対する恐れであり、更に、イエスに負わされた人間の罪の重圧の故であった。イザヤが「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザ 53:3)と述べ、「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」(イザ 53:11)と述べているとおりである。自らの罪の重大さを再認識し、主に心からの感謝をささげ、御名を賛美しょう。
2019/3/7(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書52:31-34 賛美 新聖歌389
厳しい神の裁きの現実を伝えて確かにエレミヤの預言が成就したことが伝えられた後、驚くべき報告がなされる。ゼデキヤ王は神の御前から投げ捨てられたが、ヨヤキンには捕囚となって37年目にバビロン王からゆるされた。これは単に個人の赦しという範囲を超えてダビデ家の王が解放されたことを伝えている。ダビデの裔が捕囚の地で赦しを受けたという事実の報告はユダの民に将来の希望を与えた。神は罪を犯した者を徹底的に裁いて捨て去って忘れ去られるわけではなく、なおも神の恵みと慈しみのゆえにご自身が回復の道を開かれるという驚くべき愛と希望のメッセージを伝えられる。神は救済の道を開かれるのである。
エレミヤ書の最後に救済の希望の萌芽が語られるのは偶然ではない。時代を超え、場所を超えて人間は罪から完全に自由になることはできない。しかし、罰を与えるだけではなく、それに勝る愛を注いでくださる神が人を受け入れてくださる。この愛に甘えるのではなく、この愛から恵みを奪い取るのではなく、この神の愛に応えて不完全ながらも神の前に正しく歩む生涯を求め続けよう。
2019/3/8(金) 担当 高谷清師 詩 42:2-4 賛美 聖歌 273
この詩篇について月本昭男師は「詩人のおかれた情況は作品自体からほぼ推測しうる。詩人はかつてエルサレム神殿に仕える身であった(5節)。しかし、何らかの理由で、同胞によってエルサレムから追放されている(42:10、43:1−2)。それは遠く北方のヨルダン川水源近くの地であったろう(7節)。現在も野生のガゼルが生息するその追放の地で、詩人は神に想いを向け、自然に触れつつ、自己を見つめたのである。」『詩編の思想と信仰?』新教出版社2006、P232)と述べておられる。追放という逆境にある詩人に対して、人々は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と罵る。このような状況下にあって詩人は「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。」と詠う。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハ 4:13-14)と語っておられる。霊的渇きをいやし、豊かな命を得させるのは神との交わり以外にはない。
2019/3/9(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:22-25 賛美 聖歌 316
ヤコブは「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」と語っています。イエスもマタ 7:24-27において御言葉を聞いて行うことの大切なことを語られました。パウロも「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」(ロマ 2:13)と述べています。神の言葉を聞き流すのではなく、しっかりと心で受け止め、行う人になりましょう。
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